W・K・マリオット英訳

*ニッコロ・マキャヴェッリ、1469年5月3日フィレンツェ生まれ。1494年から1512年まで
フィレンツェの官職に就き、ヨーロッパ各国の宮廷への外交使節も務めた。
1512年、フィレンツェで投獄。その後追放され、サン・カシャーノへ戻る。
1527年6月22日、フィレンツェにて死去。*

序論

ニッコロ・マキャヴェッリは、1469年5月3日にフィレンツェで生まれた。名の知られた法律家ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリと、その妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネッリの次男である。両親はいずれもフィレンツェの旧貴族の出身だった。

その生涯は、おのずと三つの時期に分かれる。奇しくも、その一つひとつがフィレンツェ史における明確かつ重要な時代と重なっている。青年期は、「豪華王」ロレンツォ・デ・メディチの指導のもと、フィレンツェがイタリアの一大勢力として栄華を極めた時代と一致する。1494年、フィレンツェでメディチ家が失脚し、同じ年にマキャヴェッリは公職に就いた。その官僚時代、フィレンツェは共和国政府のもとで自由を享受したが、共和国はメディチ家が復権した1512年に終わり、マキャヴェッリも職を失った。メディチ家は1512年から1527年まで再びフィレンツェを支配したが、同年、またしても追放された。この時期こそ、マキャヴェッリが旺盛な文筆活動を展開し、その影響力を増していった時代である。しかしメディチ家追放からわずか数週間後の1527年6月22日、官職に復帰できぬまま、五十八歳で世を去った。

青年期――一歳~二十五歳――1469~94年

マキャヴェッリの青年時代について記録されていることは少ない。しかし当時のフィレンツェの様相はよく知られており、この代表的市民が育った初期の環境を思い描くのは難しくない。フィレンツェは、相反する二つの生命の潮流を抱えた都市だったと評される。一方を導いたのは熱烈で峻厳なサヴォナローラ、他方を導いたのは華麗さを愛するロレンツォである。若きマキャヴェッリに対するサヴォナローラの影響は、さほど大きくなかったに違いない。一時はフィレンツェの命運を左右する絶大な権力を振るった人物でありながら、マキャヴェッリにとっては『君主論』で揶揄する材料となったにすぎず、武力を持たずに悲惨な末路を迎えた預言者の例として引かれているからである。これに対し、ロレンツォ存命中のメディチ家支配の壮麗さは、マキャヴェッリに強烈な印象を与えたらしい。著作の中で繰り返し言及しており、『君主論』を献呈した相手もロレンツォの孫である。

マキャヴェッリは『フィレンツェ史』の中で、自らが青春を過ごした若者たちの姿を描いている。「彼らは服装にも暮らしぶりにも先祖より奔放で、さまざまな放縦に多くの金を費やし、怠惰と賭博と女に時間も財産も浪費した。最大の関心事は、身なりよく見せ、機知と鋭さをもって語ること。そして、最も巧妙に他人を傷つけられる者こそ、最も賢いと考えられていた。」

息子グイドへの手紙では、若者がなぜ学問の機会を生かすべきかを説いており、そこからはマキャヴェッリ自身も青年時代を勉学に費やしたことがうかがえる。こう書いている。「おまえの手紙を受け取った。何よりうれしかったのは、すっかり健康を取り戻したと書いてあったことだ。これ以上の吉報はない。神がおまえにも私にも命をお許しくださり、おまえ自身も務めを果たすつもりなら、立派な人間に育てたいと思っている。」

続いて、新たな庇護者についてこう記している。「これはおまえにとってよい結果になるだろう。だが、そのためには学ばねばならない。もう病気を言い訳にはできないのだから、文学と音楽を懸命に学びなさい。わずかな才しか持たぬ私でさえ、どれほど敬意を受けているか、おまえにも分かるだろう。だから息子よ、私を喜ばせ、自らの成功と名誉を得たいのなら、正しく振る舞い、勉学に励みなさい。自らを助ける者には、他人も力を貸してくれるからだ。」

官僚時代――二十五歳~四十三歳――1494~1512年

マキャヴェッリの生涯の第二期は、自由なフィレンツェ共和国への奉仕に費やされた。すでに述べたように、この共和国は1494年のメディチ家追放から1512年の復権まで繁栄した。マキャヴェッリは公職の一つに四年間勤めたのち、第二書記局、すなわち自由と平和の十人委員会の書記官兼官房長に任命された。ここから先、マキャヴェッリの生涯に起きた出来事については、確かな足場に立って論じられる。この時期、共和国の政務で中心的な役割を果たしており、本人の著作に加え、共和国の法令、記録、公文書が残されているからである。当時の政治家や軍人との交渉をいくつか列挙するだけでも、その活動の広さは十分に分かる。同時に、『君主論』を彩る経験と人物像を、どこから得たのかも明らかになる。

最初の使節任務は1499年、カテリーナ・スフォルツァ、すなわち

『君主論』に登場する「フォルリの女君主」のもとへの派遣だった。彼女の

行動と運命から、マキャヴェッリは、要塞に頼るより民衆の信頼を得るほうがはるかに優れている、という教訓を引き出した。これはマキャヴェッリにおいてとりわけ顕著な原則であり、君主にとって死活的に重要な事柄として、さまざまな形で繰り返し強調されている。

1500年には、ピサとの戦争を継続する条件をルイ十二世から取りつけるため、フランスへ派遣された。この王こそ、イタリアの政務を扱うにあたり、『君主論』に要約された国家統治上の五つの致命的な過ちを犯し、その結果、国外へ追われた人物である。また、自らの結婚を解消することと引き換えに、教皇アレクサンデル六世への支援を約したのもこの王だった。この件からマキャヴェッリは、そのような約束も守るべきだと主張する者に対し、君主の信義について自分が書いたことを参照するよう促している。

マキャヴェッリの公人としての生涯は、教皇アレクサンデル六世と、その息子でヴァレンティーノ公のチェーザレ・ボルジアが抱いた野望に端を発する事件に、その大半を占められた。この二人は『君主論』でも大きな位置を占めている。奪い取った国家を保持したい簒奪者のために、マキャヴェッリはためらうことなく公爵の行動を引き合いに出す。実際、チェーザレ・ボルジアの行動ほど優れた模範はないとしており、そのため批評家の中には、チェーザレこそ『君主論』の「英雄」だと称える者さえいる。だが実際の『君主論』で、公爵は、他人の運によって出世し、その運とともに没落する人間の典型として挙げられている。賢明な者に期待されるあらゆる手段を講じながら、自分を救う唯一の手段だけは採らなかった男。あらゆる不測の事態に備えながら、実際に起きたただ一つの事態にだけは備えなかった男。そして持てる能力のすべてを尽くしてなお切り抜けられなくなると、自分のせいではなく、異常かつ予測不能な運命のせいだと叫んだ男である。

1503年にピウス三世が死去すると、後継者選出を見届けるため、マキャヴェッリはローマへ派遣された。そこで彼は、チェーザレ・ボルジアが欺かれ、枢機卿会議の選択をジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス二世)に許してしまうのを目撃した。ジュリアーノは、公爵を恐れる理由が最も大きかった枢機卿の一人である。この選挙を評してマキャヴェッリは、新たな恩恵を与えれば大人物が過去の危害を忘れると考える者は、自らを欺いていると述べている。ユリウスはチェーザレを破滅させるまで手を休めなかった。

1506年、教皇ユリウス二世がボローニャ遠征を開始した際、マキャヴェッリはそのもとへ派遣された。ユリウスはこの事業を成功させたが、ほかの多くの冒険と同じく、それは主として彼の猛進的な性格によるものだった。運命と女は似ているとマキャヴェッリが論じ、慎重な男より大胆な男のほうが、そのどちらをも勝ち取り、つなぎ留められると結論するのは、教皇ユリウスについて述べた箇所である。

1507年当時、フランス、スペイン、ドイツに翻弄され、その影響が現代にまで残ったイタリア諸国の盛衰を、ここで逐一追うことはできない。ここで関心を向けるのは、それらの事件と、その中心にいた三人の大人物が、マキャヴェッリという人間に関わる範囲に限られる。マキャヴェッリはフランス王ルイ十二世と何度か会見しており、その人物評価についてはすでに触れた。アラゴン王フェルナンドについては、宗教を隠れ蓑に偉業を成し遂げた人物として描いている。しかし実際のフェルナンドには、慈悲も信義も人間性も誠実さもなく、もしそのような動機に左右されていたなら、破滅していただろうという。皇帝マクシミリアンは当代でも最も興味深い人物の一人であり、多くの人がその人柄を描いている。だが1507~08年にその宮廷へ使節として赴いたマキャヴェッリは、数々の失敗の秘密を明らかにした。すなわち、秘密主義で意志の強さに欠け、計画を実現するために必要な人間の働きを顧みず、自らの望みが実行されるよう最後まで強く求めることもない人物だったのである。

マキャヴェッリの官僚生活の残る年月は、カンブレー同盟に端を発する事件に占められた。この同盟は1508年、すでに述べたヨーロッパ三大国と教皇との間で、ヴェネツィア共和国を打倒する目的で結ばれた。その目的はヴァイラの戦いで達成され、ヴェネツィアは八百年かけて獲得したすべてを、わずか一日で失った。これらの事件のさなか、フィレンツェは難しい立場に置かれた。共和国の政策全体がフランスとの友好関係に基づいていたうえ、教皇とフランスの間に対立が生じ、事態はいっそう複雑になったからである。1511年、ユリウス二世がついにフランスに対する神聖同盟を結成し、スイス人の助力を得てフランス軍をイタリアから追放すると、フィレンツェは教皇の意のままとなり、その条件を受け入れざるを得なかった。その一つがメディチ家の復権だった。1512年9月1日のメディチ家のフィレンツェ帰還と、それに伴う共和国の崩壊は、マキャヴェッリと友人たちの罷免を告げる合図となった。こうして彼の公職生活は終わった。すでに見たとおり、官職に復帰しないまま死去したからである。

文筆活動と死――四十三歳~五十八歳――1512~27年

メディチ家が復権すると、マキャヴェッリは、新たなフィレンツェの支配者のもとでも職にとどまれるのではないかと数週間むなしく望んだが、1512年11月7日付の布告により罷免された。その直後、失敗に終わった反メディチ家陰謀への加担を疑われて投獄され、拷問による尋問を受けた。新たに教皇となったメディチ家出身のレオ十世が釈放を取り計らい、マキャヴェッリはフィレンツェ近郊のサン・カシャーノにある小さな領地へ退き、文筆に専念した。1513年12月13日付でフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた手紙には、この時期の暮らしがきわめて興味深く描写されており、『君主論』を執筆した方法と動機を解き明かしている。家族や近隣の者たちと過ごす日々の営みを述べたあと、こう書いている。「夕方になると家へ帰り、書斎へ入る。その戸口で、泥と埃にまみれた百姓着を脱ぎ、気品ある宮廷服に着替える。こうしてふさわしい装いに改め、いにしえの人々の古き宮廷へ足を踏み入れる。そこで彼らは私を温かく迎え入れ、私だけのものである糧を与えてくれる。私はためらうことなく彼らと語り、なぜそのように行動したのかと問いかける。すると彼らは慈愛をもって答えてくれる。四時間というもの、私は疲れを覚えず、あらゆる悩みを忘れる。貧しさにも怯えず、死も恐ろしくない。私は完全に、あの偉大な人々に取りつかれるのだ。そしてダンテはこう言っている。

学び、よく胸に刻んでこそ知は生まれる、

さもなくば実を結ばぬ、と。

そこで私は、彼らとの対話から得たものを書き留め、
『君主国について』という小著をまとめた。そこではこの問題について、
私にできるかぎり余すところなく思索を注ぎ込んでいる。君主国とは何か、
どのような種類があるか、いかに獲得され、いかに維持され、
なぜ失われるのかを論じたものだ。これまで私の着想を一つでも
気に入ってくれたことがあるなら、この著作も気に入らぬはずはない。
とりわけ新しい君主には歓迎されるべきものだろう。そこで私は、
ジュリアーノ殿下にこれを献呈する。フィリッポ・カサヴェッキオは
すでに読んでいるから、内容についても、私と交わした議論についても、
君に話せるだろう。とはいえ、私は今なお内容を豊かにし、磨きをかけている。」

この「小著」は、今日伝わる形に至るまでに幾度もの変転を経験した。執筆中にはさまざまな思想的影響が働き、題名も献呈先も変更された。そして理由は分からないが、最終的にはロレンツォ・デ・メディチに献呈された。マキャヴェッリはカサヴェッキオと、庇護者へ送るべきか、直接持参すべきかを相談しているが、ロレンツォが実際に受け取った、あるいは読んだことを示す証拠はない。少なくとも、ロレンツォがマキャヴェッリに職を与えることはなかった。存命中から剽窃されていたにもかかわらず、

『君主論』はマキャヴェッリ自身の手では一度も出版されず、本文には今なお異同をめぐる議論がある。

マキャヴェッリはヴェットーリへの手紙をこう結んでいる。「このささやかなもの[彼の著書]について言えば、ひとたび読まれれば、私が国家統治の研究に捧げた十五年間、眠りもせず、怠けてもいなかったことが分かるだろう。人は常に、他人の犠牲によって経験を収穫した者に仕えてもらいたいと望むべきだ。また私の忠誠を疑う者はいないはずだ。これまで常に信義を守ってきた私が、今になってそれを破る術を学べるはずもない。私のように忠実かつ誠実であった者は、その本性を変えられない。そして私の貧しさこそ、私の誠実さの証人である。」

『君主論』を仕上げる前に、マキャヴェッリは『ティトゥス・リウィウス論』の執筆に取りかかった。これは『君主論』と併せて読むべき著作である。これらといくつかの小品に1518年まで取り組み、その年、ジェノヴァでフィレンツェ商人数名の事務を処理する小さな仕事を引き受けた。1519年、フィレンツェのメディチ家支配者は市民に若干の政治的譲歩を行い、大評議会を復活させる新憲法について、マキャヴェッリらに意見を求めた。しかし、あれこれと口実を設け、結局公布しなかった。

1520年、フィレンツェ商人たちはルッカとの紛争解決を再びマキャヴェッリに依頼した。だがこの年を最も特徴づけるのは、フィレンツェの文壇へ復帰し、盛んに求められる存在となったこと、そして『戦術論』を世に出したことである。

同じ年、枢機卿デ・メディチの意向により、『フィレンツェ史』執筆の依頼を受けた。この仕事には1525年まで取り組んだ。世間の好意を再び得たことが、メディチ家にこの仕事を与えさせたのかもしれない。ある古い著述家はこう述べている。「職を持たぬ有能な政治家は、巨大な鯨と同じで、遊び道具となる空樽を与えなければ、船を転覆させようとするものだ。」

『フィレンツェ史』が完成すると、マキャヴェッリは庇護者ジュリアーノ・デ・メディチに献呈するため、これをローマへ持参した。ジュリアーノはその間にクレメンス七世として教皇に即位していた。注目すべきことに、マキャヴェッリは1513年、メディチ家がフィレンツェで復権した直後に、その教訓とすべく『君主論』を書いた。そして1525年には、一族の破滅が目前に迫るなか、その当主に『フィレンツェ史』を献呈したのである。この年、パヴィアの戦いによってイタリアにおけるフランス支配は崩壊し、フランソワ一世は最大の競争相手カール五世の捕虜となった。続いてローマ劫掠が起こり、その知らせを受けるとフィレンツェの民衆派はメディチ家の軛を振り払い、一族をまたしても追放した。

このときマキャヴェッリはフィレンツェを離れていたが、「自由と平和の十人委員会」のかつての書記官職を取り戻せるのではないかと期待し、急いで帰還した。

不幸にも、フィレンツェへ戻って間もなく病に倒れ、1527年6月22日に死去した。

人物と著作

マキャヴェッリの遺骨がどこに眠るのか、誰にも分からない。しかし近代のフィレンツェは、サンタ・クローチェ教会に、この都市が誇る最も著名な息子たちと並べて、壮麗な記念墓碑を建てた。他国の人々がその著作に何を見いだしたにせよ、イタリアはそこに国家統一の理念と、ヨーロッパ諸国の中で再興するための萌芽を見いだしたことを認めたのである。マキャヴェッリの名が世界中で邪悪な意味を帯びてしまったことに抗議しても無駄ではあるが、その不吉な評判が示唆するような、彼の教説に対する苛烈な解釈は、同時代には知られていなかったと指摘しておくべきだろう。近年の研究により、今ではより妥当に解釈できるようになった。長く人々の脳裏につきまとった「邪悪な妖術師」の姿が薄れはじめたのも、そうした研究のおかげである。

マキャヴェッリが、優れた観察力、鋭敏さ、勤勉さを備えた人物であったことは疑いない。目の前で起こるあらゆることを、価値を見抜く目で記録し、政務から強制的に退かされたのちには、卓越した文才によってそれを作品に生かした。しかし彼自身も、同時代人による描写でも、成功した政治家と作家という稀有な二面性を備えた人物としては現れない。数々の使節任務や政治上の職務で挙げた成果は、せいぜい中程度だったように見えるからである。カテリーナ・スフォルツァには欺かれ、ルイ十二世には無視され、チェーザレ・ボルジアには圧倒された。使節任務のいくつかはまったく成果を生まず、フィレンツェの防備を固める試みも失敗し、彼が編成した兵士たちは、その臆病ぶりで誰もを驚かせた。自分自身の処世においては臆病で、時勢に迎合した。多大な恩義のあったソデリーニの側に立てば自分まで危うくなると恐れ、あえて姿を見せなかった。メディチ家との関係にも疑惑の余地があり、ジュリアーノは、国政に登用せず『フィレンツェ史』を書かせることで、彼の真の得意分野を見抜いていたように思われる。その人物像のうち、弱点も失敗もまったく見当たらないのは、文学の側面だけである。

ほぼ四世紀にわたって『君主論』へ光が当てられてきたにもかかわらず、そこで提起された問題は、今なお議論に値し、興味を失っていない。なぜならそれは、統治される者と統治する者との間に永遠に存在する問題だからである。その倫理観は、よくも悪くもマキャヴェッリの同時代人のものだ。とはいえ、ヨーロッパの政府が道徳的な力より物質的な力に依存するかぎり、時代遅れとも言い切れない。歴史上の事件や人物も、マキャヴェッリが統治と行動の理論を例証するために用いることで、興味深いものとなっている。

今なおヨーロッパや東方の政治家に行動原理を提供している国家統治の格言を別にしても、『君主論』には至るところで立証できる真理が散りばめられている。アレクサンデル六世の時代と同じく、今なお人は、単純さと貪欲さゆえに騙される。マキャヴェッリがアラゴン王フェルナンドの人物像において暴いた悪徳は、今も宗教の外套に隠されている。人は物事をありのままに見ず、自分がそうあってほしい姿で見る――そして破滅する。政治に完全に安全な道はなく、慎重さとは、最も危険の少ない道を選ぶことにある。さらに高次の次元へ進めば、マキャヴェッリは、犯罪によって帝国を得ることはできても、栄光を得ることはできないと繰り返し説いている。必要な戦争は正しい戦争であり、戦う以外に道がないとき、国民の武器は聖なるものとなる。

政府は生きた道徳的力へ高められ、社会の根本原理を正しく認識するよう民衆を鼓舞できなければならない――これはマキャヴェッリよりはるか後世の叫びであり、この「高邁な論題」に対して『君主論』が寄与するところは少ない。マキャヴェッリは、人間についても政府についても、現実に見いだした姿以外で描くことを常に拒んだ。そして卓越した技量と洞察をもって書いたからこそ、その著作には永続的な価値がある。しかし『君主論』に、単なる芸術的・歴史的興味を超えた価値を与えているのは、今日なお国家と統治者を導き、互いの関係や近隣諸国との関係を規定する大原則を扱っているという、動かしがたい事実である。

『君主論』の翻訳にあたり、私が何より目指したのは、現代の文体や表現の観念に合わせた流麗な言い換えではなく、いかなる犠牲を払ってでも原文を一語一語正確に移すことだった。マキャヴェッリは、安易に美辞麗句を並べる人物ではなかった。執筆を取り巻く状況が、一語一語を吟味するよう彼に強いた。論題は高尚で、内容は重く、文体は気高いほど平明かつ真摯である。物事を区分し、定義し、説明するうえで、彼ほど簡潔な者がかつていただろうか。 『君主論』では、一語一語だけでなく、それぞれの語が置かれた位置にまで、確かな理由があると言ってよい。シェイクスピア時代のイングランド人にとって、このような論考の翻訳は、ある意味で比較的たやすい仕事だった。当時の英語の性質は、現代よりもイタリア語の性質に近かったからである。だが今日のイングランド人にとっては、それほど簡単ではない。一例だけ挙げよう。マキャヴェッリが、ローマ元老院がギリシャの弱小国に対して採った政策を示すために用いた

intrattenere という語は、エリザベス朝の人間なら正しく「歓待する」と訳し、「ローマはアイートーリア人とアカイア人の力を増大させることなく、彼らを歓待した」と言えば、同時代の読者は誰もがその意味を理解しただろう。

しかし今日では、そのような言い回しは古めかしく曖昧で、意味不明とさえ思われるだろう。そのため、「ローマはアイートーリア人と友好関係を維持した」などと、一語の働きを四語で担わせざるを得ない。意味への絶対的な忠実さと両立するかぎり、イタリア語の簡潔で力強い表現を保つよう努めた。その結果、ときに文章が険しくなっているとしても、著者の意味へ到達しようと熱望する読者が、そこへ通じる道の荒々しさを見過ごしてくれることを願うほかない。

以下はマキャヴェッリの著作一覧である。

主要著作。『ピサの情勢についての論考』、1499年。『反乱したヴァル・ディ・キアーナの住民を処遇する方法について』、1502年。『ヴァレンティーノ公がヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモらを殺害した方法について』、1502年。『資金調達についての論考』、1502年。『第一デチェンナーレ』(三韻句法による詩)、1506年。『ドイツ事情』、1508~12年。『第二デチェンナーレ』、1509年。『フランス事情』、1510年。『ティトゥス・リウィウス論』全三巻、1512~17年。『君主論』、1513年。『アンドリア』(テレンティウスから翻訳した喜劇)、1513年(?)。『マンドラゴラ』(韻文の序詞を伴う全五幕の散文喜劇)、1513年。『言語について』(対話篇)、1514年。『クリツィア』(散文喜劇)、1515年(?)。『大悪魔ベルファゴール』(小説)、1515年。『黄金のロバ』(三韻句法による詩)、1517年。『戦術論』、1519~20年。『フィレンツェ国家の改革についての論考』、1520年。『ルッカ市事情概説』、1520年。『ルッカのカストルッチョ・カストラカーニ伝』、1520年。『フィレンツェ史』全八巻、1521~25年。『歴史断片』、1525年。

そのほかの詩には、『ソネット集』『歌曲集』『八行詩集』『謝肉祭歌集』がある。

版。アルド版、ヴェネツィア、1546年。デッラ・テルティーナ版、1550年。カンビアージ版、フィレンツェ、全六巻、1782~85年。古典叢書版、ミラノ、全十巻、1813年。シルヴェストリ版、全九巻、1820~22年。パッセリーニ、ファンファーニ、ミラネージ版、刊行は全六巻のみ、1873~77年。

小著。F・L・ポリドーリ編、1852年。『家族宛書簡集』E・アルヴィージ編、1883年、削除を施した版を含む二版。『マキャヴェッリ作とされる著作集』G・カネストリーニ編、1857年。F・ヴェットーリ宛書簡については、A・リドルフィ『ニッコロ・マキャヴェッリの著書『君主論』の目的をめぐる考察』ほかを参照。D・フェラーラ『ニッコロ・マキャヴェッリ私信集』、1929年。

献辞

偉大なるロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ殿へ

君主の恩顧を得ようと努める者は、自分が最も大切にしている品、あるいは君主が最も喜ぶと考える品を携えて、その御前に出るのが常である。ゆえに、君主の偉大さにふさわしい馬、武具、金襴、宝石、そのほか同様の装飾品が献じられるのを、しばしば目にする。

そこで私も、殿下への忠誠の証しとなるものを携え、御前に参上したいと願った。だが私の持ち物の中には、同時代の出来事における長年の経験と、古代についての絶え間ない研究から得た、偉人たちの行動に関する知識以上に、愛惜し重んじるものはなかった。長きにわたり多大な労を傾けて考察したこの知識を、今、一冊の小著にまとめ、殿下へお送りする。

この著作が殿下の御目に値しないことは承知している。それでも、どうかお受け取りいただけるものと、殿下の御厚情を深く信じている。これほどの歳月をかけ、これほど多くの苦労と危険を経て学んだすべてを、殿下が最短の時間で理解できる機会を差し上げる以上に、私にできる優れた贈り物はないからである。この著作を、大仰で華麗な言葉で飾ることも、均整の取れた美文で満たすことも、多くの者が著作を飾る際に用いる、内容とは無関係な魅力や装飾を加えることもしなかった。私は、この著作がまったく評価されないか、さもなくば、事実の真実性と主題の重大さゆえに受け入れられることだけを望んだからである。

また、身分の低い卑賤な者が、あえて君主の政務を論じ、裁断するのは僭越だと考える人々にも、私は同意しない。風景を描く者が、山や高地の性質を観察するためには低い平野へ身を置き、平野の性質を観察するためには高い山へ登るのと同じく、民衆の本質を理解するには君主でなければならず、君主の本質を理解するには民衆の一人でなければならないからである。

ゆえに殿下よ、私がこれをお送りする心そのままに、このささやかな贈り物をお受け取りいただきたい。殿下がこれを丹念に読み、熟考されるなら、運命と殿下のほかの資質とが約束する偉大さへ、ぜひとも到達していただきたいという、私の切なる願いを知ることになるだろう。そして殿下が、その偉大さの頂から、時にこの低き場所へ目を向けられるなら、私がいかに不当にも、運命の激しく絶え間ない悪意に苦しんでいるかをご覧になるだろう。

君主論

第一章 君主国には何種類あり、いかなる手段で獲得されるか

人間を支配してきた、また現在も支配しているすべての国家、すべての統治権力は、共和国か君主国のいずれかである。

君主国には、同じ一族が長年にわたり支配してきた世襲君主国と、新たに成立した君主国がある。

新しい君主国には、フランチェスコ・スフォルツァにとってのミラノのようにまったく新しいものと、スペイン王にとってのナポリ王国のように、獲得した君主がもともと世襲していた国家へ、いわば一部として併合されたものとがある。

このように獲得された領土は、君主の支配下で暮らすことに慣れているか、自由に暮らすことに慣れているかのどちらかである。また、君主自身の武力、他人の武力、運、あるいは力量によって獲得される。

第二章 世襲君主国について

共和国については、別の著作で詳しく論じたので、ここではいっさい触れず、君主国だけを扱うことにする。先に示した順序に従い、そのような君主国をいかに統治し、維持すべきかを論じよう。

まず、新たな国家よりも、世襲国家、なかでも君主の一族による支配に長く慣れた国家のほうが、維持するうえで困難が少ない。凡庸な力量の君主であっても、祖先の慣習を踏みにじらず、状況の変化に応じて慎重に対処するだけで、並外れて強大な力に奪われないかぎり、その地位を維持できるからである。たとえ奪われても、簒奪者に何か災いが起これば、取り戻せる。

イタリアでは、フェラーラ公がその例である。領地に長く根を下ろしていなければ、1484年のヴェネツィア人の攻撃にも、1510年の教皇ユリウスの攻撃にも、耐えられなかっただろう。世襲君主には人を害する理由も必要も少なく、それだけ愛されやすい。並外れた悪徳によって憎まれないかぎり、臣民が自然に好意を寄せると考えるのが道理である。また、支配が古く長く続くうちに、変革を促す記憶も動機も失われていく。一つの変革は、必ず次の変革が食いつく足場を残すからである。

第三章 混合君主国について

困難が生じるのは、新しい君主国である。まず、完全に新しいのではなく、全体として混合国家と呼べる国の一部である場合、その変動は主として、あらゆる新しい君主国に内在する困難から生じる。人は暮らしがよくなることを期待し、進んで支配者を替えようとする。その期待に駆られて、現在の支配者に武器を取って立ち向かう。だがそれは思い違いであり、やがて経験によって、以前より悪くなったことを知る。これにはもう一つ、自然かつ一般的な必然性も関係している。新しい君主は、自らに服従した者たちへ軍隊を差し向け、新たな領地の維持に伴う無数の負担を課さざるを得ないのである。

こうして君主国を奪う際に危害を加えた者すべてを敵に回す一方、自分をそこへ導き入れた味方も、期待どおりに満足させられないため、つなぎ留められない。しかも彼らには恩義があるため、強硬な手段に訴えることもできない。どれほど強大な軍事力を持っていても、一地方へ入るには、必ず現地住民の好意が必要だからである。

こうした理由から、フランス王ルイ十二世はたちまちミラノを占領し、同じほどたちまち失った。最初に追い出すだけなら、ロドヴィーコ自身の軍勢だけで十分だった。ルイのために門を開いた者たちは、将来の利益への期待を裏切られ、新たな君主の苛政に耐えられなかったからである。とはいえ、反乱した地方を二度目に獲得すれば、その後はそう簡単には失わない。君主は反乱を機に、さほどためらうことなく、罪を犯した者を処罰し、疑わしい者を排除し、最も弱い地点の守りを固められるからである。したがって、フランスに最初のミラノ喪失をもたらすには、ロドヴィーコ公が国境で反乱を起こすだけで足りた。だが二度目に失わせるには、全世界を敵に回し、フランス軍を打ち破ってイタリアから追い出す必要があった。それは先に述べた理由による。

それでもミラノは、一度目にも二度目にもフランスから奪われた。一度目についての一般的な理由はすでに論じた。残るのは二度目の理由を挙げ、フランス王が利用できた手段、また同じ立場の者であれば利用できたはずの手段を検討し、獲得した領土をどうすればルイより確実に維持できたかを見ることである。

さて、獲得者によって旧来の国家へ付け加えられる領土は、同じ国に属し、同じ言語を話す場合と、そうでない場合とに分けられる。同じであれば、とりわけ自治に慣れていない場合、保持するのは容易である。確実に保持するには、かつてそこを支配していた君主の一族を滅ぼすだけでよい。二つの民が、それ以外の点では従来の状態を保ち、慣習にも違いがなければ、平穏に共存するからである。フランスと長く結びついてきたブルターニュ、ブルゴーニュ、ガスコーニュ、ノルマンディーに、その例が見られる。言語に多少の違いがあっても、慣習は似ており、民は容易に共存できる。それらを併合した者が保持を望むなら、心に留めるべきことは二つだけである。一つは、以前の領主の一族を断絶させること。もう一つは、その地の法律も税も変えないこと。そうすれば、きわめて短期間で旧来の君主国と完全に一体化する。

しかし言語、慣習、法律の異なる国で国家を獲得すると、困難が生じる。それを保持するには幸運と多大な努力が必要であり、最も強力かつ確実な助けの一つは、獲得者自身がそこへ赴いて居住することである。そうすれば地位はいっそう安定し、長続きする。ギリシャにおけるトルコ人がそうだった。かの者は国家を維持するために、ほかにもあらゆる方策を講じたが、自らその地に住まなければ保持できなかっただろう。現地にいれば、混乱が生じるそばから発見し、素早く対処できる。だが遠く離れていれば、混乱が大きくなってからようやく耳に入り、そのときにはもう手の施しようがない。さらに、役人がその国を略奪することもなくなる。臣民は君主へすぐに訴え出られることに満足する。そのため、善良であろうとする者には君主を愛する理由が増え、そうでない者には恐れる理由が増える。国外からその国を攻撃しようとする者も、最大限の慎重さを求められる。君主が現地に住むかぎり、その国を奪い取るのはきわめて難しい。

もう一つの、さらに優れた方法は、その国の鍵となる一、二か所へ植民団を送ることである。そうしなければ、多数の騎兵と歩兵を駐屯させるほかない。植民団にはさほど費用がかからない。ほとんど、あるいはまったく金をかけずに送り込み、居住させられる。土地や家屋を奪って新住民へ与えるため、害を受けるのは少数の市民だけである。しかも害を受けた者は、貧しくなって各地に散らばるため、君主を傷つけることができない。残りの者は害を受けないので、容易に平穏を保つ。同時に、財産を奪われた者と同じ目に遭うことを恐れ、過ちを犯すまいと慎重になる。結論として、植民団は費用がかからず、より忠実で、与える害も少ない。そしてすでに述べたとおり、害を受けた者は貧しく分散しているため、危害を加えられない。ここで指摘すべきなのは、人は手厚く扱うか、徹底的に叩き潰すかのどちらかにすべきだということである。軽い危害なら復讐できるが、重大な危害には復讐できない。ゆえに人へ危害を加えるなら、復讐を恐れる必要がないほど徹底したものでなければならない。

ところが植民団の代わりに武装兵を駐屯させれば、はるかに多くの費用がかかり、守備隊の維持だけでその国から得られる全収入を使い果たすことになる。こうして獲得は損失へ変わる。しかも、さらに多くの民を激怒させる。守備隊が各地を移動することで、国全体が被害を受け、誰もが苦難を味わい、敵意を抱くからである。彼らは自国で打ち負かされていても、なお危害を加えうる敵である。したがって、あらゆる点で、このような守備隊は植民団が有益であるのと同じほど無益である。

さらに、前述の点で異なる国を支配する君主は、近隣の弱小国の指導者かつ保護者となり、その中の強国を弱体化させなければならない。また、偶然にも自分と同じほど強大な外国勢力が、その地に足場を築かぬよう注意すべきである。過度の野心や恐怖から不満を抱く者たちが、そのような外国勢力を招き入れることは必ず起こる。すでに例も見られる。ローマ人をギリシャへ招き入れたのはアイートーリア人だった。ほかのどの国でも、ローマ人が足場を得たときには、現地の住民が彼らを招き入れている。そして物事の常として、強大な外国勢力がある国へ入るや、従属する諸国はすべて、支配勢力への憎悪に駆られて、その外国勢力のもとへ引き寄せられる。そのため、従属国を味方につけるのに苦労する必要はない。すぐさま皆が、その地で獲得した国家のもとへ結集するからである。ただし、彼らが過大な権力と権威を握らぬよう注意しなければならない。そうすれば、自らの軍事力と彼らの好意を用いて、容易に強国を抑え、その国の完全な支配者であり続けられる。この仕事を適切に処理できない者は、獲得したものをすぐに失い、保持している間も果てしない困難と苦悩に見舞われる。

ローマ人は、併合した国々でこれらの方策を厳密に守った。植民団を送り、弱小勢力とは力を増大させぬ範囲で友好関係を維持し、強大な勢力を抑え、強力な外国勢力が権威を得るのを許さなかった。例としてはギリシャだけで十分だろう。ローマ人はアカイア人とアイートーリア人を友好勢力として保ち、マケドニア王国を屈服させ、アンティオコスを追放した。それでも、アカイア人とアイートーリア人がどれほど功績を挙げても、その力を増すことは許さなかった。フィリッポスに説得されても、まず屈服させずに友好関係を結ぶことはなかった。アンティオコスの威勢にも屈せず、彼がその国に少しでも支配権を保持することを認めなかった。この場合、ローマ人は、賢明な君主なら誰もが行うべきことを行ったのである。賢明な君主は、現在の問題だけでなく将来の問題も考慮し、全力で備えなければならない。将来の問題は、予見していれば容易に対処できるが、間近に迫るまで待てば、病はすでに不治となっており、薬が間に合わないからである。医師が消耗熱について言うように、発病当初は治療が容易だが発見が難しく、時がたち、初めに発見も治療もされなければ、発見は容易だが治療が難しくなる。国家の政務でも同じことが起きる。発生する災いを予見できれば――それができるのは賢者だけだが――素早く改められる。しかし予見せず、誰の目にも明らかになるまで成長を許せば、もはや救済策はない。ゆえにローマ人は、問題を予見するとただちに対処し、戦争を避けるためだとしても、問題が深刻になるまで放置しなかった。戦争は避けられず、延期すれば敵を利するだけだと知っていたからである。さらに、イタリアで戦わずに済むよう、フィリッポスやアンティオコスとはギリシャで戦うことを望んだ。どちらの戦いも避けることはできたが、それを望まなかった。また、現代の賢人たちが絶えず口にする「時の恵みを享受しよう」という言葉にも、決して耳を貸さなかった。彼らが享受しようとしたのは、自らの勇気と賢明さがもたらす恵みだった。時はあらゆるものを押し流し、善とともに悪を、悪とともに善を運んでくるからである。

ではフランスへ目を転じ、今述べたことを一つでも行ったか検討しよう。ここではシャルルではなくルイについて語る。イタリアを最も長く支配したため、その行動を観察する価値が高いからである。そうすれば、異質な要素から成る国家を保持するために行うべきことと、正反対のことをしたと分かるだろう。

ルイ王をイタリアへ招き入れたのは、介入によってロンバルディアの半分を手に入れようと望んだヴェネツィア人の野心だった。私は王が採った方針を非難するつもりはない。イタリアに足場を得たいと望みながら、その地に友人がおらず、むしろシャルルの行動のせいで、あらゆる門が閉ざされていたのだから、得られる友好関係を受け入れるほかなかった。ほかの点でいくつか過ちを犯さなければ、計画はすぐに成功していただろう。ロンバルディアを獲得した王は、シャルルが失った権威をただちに取り戻した。ジェノヴァは服従し、フィレンツェ人は友となった。マントヴァ侯、フェラーラ公、ベンティヴォーリ家、フォルリの女君主、ファエンツァ、ペーザロ、リミニ、カメリーノ、ピオンビーノの諸領主、ルッカ人、ピサ人、シエナ人――誰もが友となろうと接近してきた。そのときヴェネツィア人は、自らが採った方針の軽率さを悟ることになった。ロンバルディアの二都市を確保するために、王をイタリアの三分の二の支配者にしてしまったのである。

ここで、先に示した規則を守り、友人たちの安全を保障して保護していれば、王がどれほど容易にイタリアでの地位を維持できたか考えてみるとよい。友人は数こそ多かったが、いずれも弱く臆病で、教会を恐れる者もいれば、ヴェネツィア人を恐れる者もいた。そのため彼らは常に王と手を組まざるを得ず、彼らを利用すれば、残る強国に対しても容易に自らの安全を確保できたはずである。ところがミラノへ入るや、王は正反対のことをし、教皇アレクサンデルがロマーニャを占領するのを助けた。この行動によって自らを弱体化させ、友人や自分の懐へ飛び込んできた者たちを失う一方、教会の霊的権力に大きな世俗権力を加え、さらに強大な権威を与えていることに、考えが及ばなかったのである。この最初の過ちを犯すと、その後も同じ道を進まざるを得なくなり、アレクサンデルの野心を食い止め、トスカーナの支配者になるのを防ぐため、自らイタリアへ来なければならなくなった。

教会を強大にし、友人を失っただけでは足りないかのように、王はナポリ王国を欲して、スペイン王と分割した。それまでイタリアで唯一の裁定者だったのに、共同者を招き入れたため、その国の野心家や自国の不満分子に、身を寄せる場所を与えてしまった。しかも王国には、自分から扶持を受ける王を残しておけたのに、その者を追い出し、代わりに自分自身を追い出せる人物を据えたのである。

獲得への欲望は、まことに自然かつ一般的なものである。能力のある者が獲得を試みるなら、常に称賛され、非難されることはない。だが能力がないのに、どのような手段を使ってでも獲得しようとするなら、それは愚行であり、非難に値する。したがってフランスが自らの軍勢でナポリを攻撃できたなら、そうすべきだった。できないなら、分割すべきではなかった。ロンバルディアをヴェネツィア人と分割したことは、それによってイタリアに足場を得たという理由で正当化できたとしても、もう一つの分割は非難に値する。その必要性を弁明できないからである。

したがってルイは、五つの過ちを犯した。弱小勢力を滅ぼし、イタリアの大勢力の一つを強大にし、外国勢力を招き入れ、自らその国に住まず、植民団も送らなかった。王が生きている間、これらの過ちだけなら、六つ目の過ち――ヴェネツィア人から領土を奪うこと――を犯さないかぎり、必ずしも致命傷にはならなかっただろう。教会を強大にせず、スペインをイタリアへ招き入れていなければ、ヴェネツィア人を弱体化させるのはきわめて合理的であり、必要でもあった。しかし先の措置を採った以上、その破滅に決して同意すべきではなかった。ヴェネツィア人が強大であれば、ほかの勢力がロンバルディアへ野心を抱くのを常に防いだからである。ヴェネツィア人は、自らがその地の支配者になるのでなければ、そのような企てを決して認めなかっただろう。また、ほかの勢力も、ロンバルディアをヴェネツィア人へ与えるためにフランスから奪おうとはしなかっただろうし、フランスとヴェネツィアの双方を敵に回す勇気も持てなかっただろう。

「ルイ王は戦争を避けるため、ロマーニャをアレクサンデルへ、ナポリ王国をスペインへ譲った」と言う者がいるなら、先に挙げた理由に基づき、こう答える。戦争を避けるために過ちを犯してはならない。戦争は避けられず、自らに不利な形で延期されるだけだからである。また別の者が、王は教皇に対し、結婚の解消とルーアンへの枢機卿帽授与と引き換えに、事業を支援すると誓約していたと主張するなら、君主の信義と、それをどのように守るべきかについて後に記すことをもって答えとしよう。

このようにルイ王は、国を占領し、保持を望んだ者たちが守ってきた条件を一つも守らなかったため、ロンバルディアを失った。そこに不可思議なことは何もなく、すべて道理にかない、ごく自然である。この件について私はナントで、ルーアン枢機卿と話したことがある。それは、教皇アレクサンデルの息子チェーザレ・ボルジア――通称ヴァレンティーノ公――がロマーニャを占領したときだった。ルーアン枢機卿が、イタリア人は戦争を理解していないと言ったので、私は、フランス人は国家統治を理解していないと答えた。理解していたなら、教会がこれほど強大になるのを許さなかったはずだ、という意味である。実際、イタリアで教会とスペインが強大になったのはフランスのせいであり、フランスの破滅は両者のせいだと分かった。ここから、決して、あるいはほとんど決して外れない一般則が導かれる。他者を強大にした者は、自ら滅びる。なぜなら、その優位は策略か武力によってもたらされたものであり、強大になった側は、そのどちらをも信用しないからである。

第四章 アレクサンドロスが征服したダレイオス王国は、なぜアレクサンドロスの死後、その後継者たちに反乱を起こさなかったのか

新たに獲得した国家を保持する際、人々が直面してきた困難を考えると、不思議に思う者もいるだろう。アレクサンドロス大王は数年でアジアの支配者となり、統治がまだほとんど定着しないうちに死去した。それなら帝国全体が反乱を起こしても不思議ではなかったはずだが、後継者たちは支配を維持し、自らの野心から生じた内輪の争い以外、何の困難にも直面しなかったからである。

これに対して私は、記録に残る君主国には二つの異なる統治形態があると答える。一つは、君主が、恩顧と許可によって大臣に任じた一群の家臣の助けを借りて王国を統治する形。もう一つは、君主と諸侯がともに統治し、諸侯は君主の恩寵ではなく、血統の古さによってその地位を有する形である。後者の諸侯は自らの領地と臣民を持ち、臣民は彼らを領主と認め、自然な愛情を抱いている。君主と家臣によって統治される国家では、君主への敬意がより強い。国全体を見渡しても、君主より上位と認められる者は一人もおらず、別の者に従うとしても、それは大臣や官吏として従うのであって、特別な愛情を抱いているわけではないからである。

現代におけるこの二つの統治形態の例は、トルコ君主国とフランス王国である。トルコ君主国全体は一人の君主に統治され、ほかの者はその家臣である。君主は王国をサンジャク[訳注:オスマン帝国の行政区画]に分割し、それぞれに異なる統治者を送り、自らの望むままに交代させる。一方フランス王は、古くから続く諸侯のただ中にいる。諸侯は自らの臣民に認められ、愛されている。固有の特権を持ち、王も危険を冒さずにそれを奪うことはできない。したがって、この二つの国家を考察すれば、トルコ君主国を奪うのはきわめて難しいが、ひとたび征服すれば保持するのはきわめて容易だと分かる。トルコ君主国を奪うのが難しいのは、簒奪者が国内の諸侯から招かれることも、君主の側近たちの反乱によって計画を助けてもらえると期待することもできないからである。その理由はすでに述べた。大臣は皆、奴隷であり隷属者であるから、買収するのがきわめて難しい。たとえ買収しても、民衆を従わせられないため、大きな利益は期待できない。したがってトルコ君主国を攻撃する者は、敵が団結していると心得、他人の反乱より自らの力を頼みとしなければならない。しかし、ひとたびトルコ君主を征服し、軍隊を再編できないほど野戦で打ち破れば、恐れるべきは君主の一族だけである。その一族を滅ぼせば、もはや恐れる者はいない。ほかの者たちは民衆から信頼されていないからである。征服者は勝利前に彼らを頼みとしなかったのと同じく、勝利後も恐れる必要はない。

フランスのように統治される王国では、正反対のことが起きる。王国内の諸侯を味方につければ、容易に侵入できるからである。不満を抱く者や変革を望む者は、必ず見つかる。そのような者たちは、すでに述べた理由から、国家への道を開き、勝利を容易にしてくれる。だがその後、保持しようとすれば、自分を助けた者と打ち倒した者の双方から、無数の困難を受ける。君主の一族を滅ぼすだけでは足りない。残った諸侯が、新たな反乱の指導者となるからである。彼らを満足させることも、皆殺しにすることもできない以上、好機が訪れれば、その国家を失うことになる。

さて、ダレイオスの統治形態がどのようなものだったかを考えれば、トルコ君主国に似ていると分かる。したがってアレクサンドロスに必要だったのは、まず野戦でダレイオスを打ち破り、次にその国を奪うことだけだった。その勝利ののちダレイオスが殺されると、先に述べた理由から、国家はアレクサンドロスのもとで安定した。後継者たちも団結していれば、安全かつ安楽に支配を享受できただろう。王国内で起きた騒乱は、彼ら自身が引き起こしたものだけだったからである。

しかしフランスのように構成された国家を、同じように安穏と保持することはできない。スペイン、フランス、ギリシャでローマ人に対する反乱が頻発したのも、それらの国に多くの君主国が存在したためである。それらの記憶が続くかぎり、ローマ人の支配は常に不安定だった。しかし帝国の力と長い存続によって記憶が消えると、ローマ人は確固たる支配者となった。のちにローマ人同士で争った際も、それぞれがその地方で築いた権威に応じて、各地の勢力を自陣営へ引き入れることができた。以前の領主の一族は滅ぼされていたため、ローマ人以外に支配者と認められる者はいなかった。

以上を心に留めれば、アレクサンドロスがアジア帝国を容易に保持できたことも、ピュロスをはじめ多くの者が獲得した国を保持するのに苦しんだことも、誰も不思議には思わないだろう。これは征服者の力量の大小によるのではなく、従属した国家の構造が一様でないために起こるのである。

第五章 併合以前に独自の法律のもとで暮らしていた都市または君主国を統治する方法について

以上のように獲得された国家が、独自の法律のもとで自由に暮らすことに慣れていた場合、保持を望む者には三つの方法がある。第一は滅ぼすこと。第二は自らその地に住むこと。第三は、貢納を課し、自分に友好的な寡頭政権を内部に樹立したうえで、従来の法律のもとで暮らすことを許すことである。そのような政府は君主によって作られたため、君主の友好と支援なしには存続できないと知っており、君主を支えるために全力を尽くす。したがって、自由に慣れた都市を保持しようとする者は、ほかのどの方法よりも、その都市自身の市民を利用するほうが容易に保持できる。

例としてスパルタ人とローマ人がいる。スパルタ人はアテネとテーベに寡頭政権を樹立して保持したが、それでも失った。ローマ人はカプア、カルタゴ、ヌマンティアを保持するために破壊し、失わなかった。ギリシャについては、スパルタ人と同じく、自由を与え、法律を認めることで保持しようとしたが、成功しなかった。そのため保持するには、国内の多くの都市を破壊せざるを得なかった。実際、それらを滅ぼさずに保持する安全な方法はない。自由に慣れた都市の支配者となりながら破壊しない者は、その都市によって自らが破滅させられると思ったほうがよい。反乱が起きれば、「自由」の名と古来の特権が必ず結集の旗印となるからである。それらは、時がたとうと、恩恵を与えようと、決して忘れられない。何をし、どのような備えを講じても、市民を分裂させるか各地へ離散させないかぎり、その名も特権も忘れられず、機会あるごとにただちに結集のよりどころとなる。フィレンツェ人に百年間隷属させられていたピサがそうだった。

しかし都市や国が君主のもとで暮らすことに慣れており、その一族が滅ぼされた場合、民は一方では服従に慣れ、他方では以前の君主を失っているため、自分たちの中から新たな君主を選ぶことで合意できず、自治の方法も知らない。そのため武器を取るまでに長い時間がかかり、君主は彼らを味方につけ、はるかに容易に支配を固められる。ところが共和国には、より強い生命力、より激しい憎悪、より大きな復讐心がある。そのため、かつての自由の記憶を決して眠らせることができない。ゆえに最も安全な方法は、滅ぼすか、自らその地に住むことである。

第六章 自らの武力と力量によって獲得される新しい君主国について

これから完全に新しい君主国について論じるにあたり、君主と国家の双方について、最も高貴な例を挙げるからといって、誰も驚かないでほしい。人はほとんど常に、他人が踏み固めた道を歩み、その行動を模倣する。だが他人の道を完全にたどることも、模倣する人物の力量に達することもできない。ゆえに賢明な者は、常に偉人たちが踏み固めた道を進み、最も卓越した者を模倣すべきである。自らの力量が及ばなくても、少なくともその香りを帯びるためである。遠すぎる標的を射ようとする熟練の射手にならえばよい。弓の力が届く限界を知る射手は、標的よりはるか上を狙う。それは、力や矢によってその高さまで到達するためではなく、高く狙うことによって、望む標的へ命中させるためである。

そこで私は、まったく新しい君主国に新しい君主が立った場合、国家を獲得した者の力量が大きいか小さいかに応じて、保持する際の困難も増減すると言う。私人の身分から君主になるには、力量か運のいずれかが前提となるのだから、そのどちらかが多くの困難をある程度軽減するのは明らかである。それでも、運に最も頼らなかった者こそ、最も強固な地位を築く。また、ほかに領地を持たず、君主自身がその地に居住せざるを得ない場合、事態はいっそう容易になる。

では、運ではなく自らの力量によって君主となった者へ話を進めよう。その最も優れた例は、モーセ、キュロス、ロムルス、テセウスなどである。モーセは神の御意志を執行しただけの者なので、論じるべきではないかもしれない。それでも、神と語るに値する者とした恩寵だけを見ても、称賛されるべきである。だが王国を獲得または創設したキュロスらを考察しても、誰もが称賛に値する。その個々の行動と統治を検討すれば、あれほど偉大な師を持ったモーセにも劣らないと分かるだろう。彼らの行動と生涯を調べても、運から与えられたのは機会だけだったと分かる。その機会が、自分たちに最善と思われる形へ成形すべき素材をもたらしたのである。その機会がなければ精神の力は消え去り、精神の力がなければ機会は無駄に訪れただろう。

したがってモーセには、イスラエルの民がエジプトで奴隷となり、エジプト人に抑圧されているのを見いだす必要があった。隷属から解放されるため、モーセに従う気になるためである。ロムルスには、ローマ王となり祖国の建設者となるため、アルバにとどまらず、生まれたときに捨てられる必要があった。キュロスには、ペルシャ人がメディア人の統治に不満を抱き、メディア人が長い平和によって軟弱で惰弱になっている必要があった。テセウスも、アテネ人が離散していなければ、その力量を示せなかった。ゆえに、こうした機会が彼らを幸運にし、その優れた力量が機会を見抜かせ、それによって祖国は高貴なものとなり、名声を得たのである。

この者たちのように、勇気ある方法によって君主となる者は、君主国を獲得する際には苦労するが、保持するのは容易である。獲得に際して直面する困難は、一つには、自らの統治と安全を確立するため、新たな制度と方法を導入せざるを得ないことから生じる。ここで心得ておくべきなのは、新しい秩序の導入に率先することほど、着手が難しく、実行が危険で、成功が不確かなものはないということである。改革者は、旧制度のもとで利益を得ていた者すべてを敵に回し、新制度のもとで利益を得るかもしれない者からも、熱意の乏しい擁護しか得られない。この冷淡さは、一つには法律を味方につけた反対者への恐れから、もう一つには、長く経験するまで新しいものを容易に信じない人間の不信から生じる。そのため敵対者は、攻撃する機会があれば党派的な熱意で攻撃し、もう一方は気乗りせずに守る。こうして君主は、支持者とともに危険へ陥る。

したがって、この問題を徹底的に論じるには、改革者が自力に頼れるのか、他人に依存しなければならないのかを検討する必要がある。つまり、事業を完成させるために、懇願に頼るのか、武力を用いられるのかということである。前者の場合、必ず失敗し、何事も成し遂げられない。だが自力に頼り、武力を用いられるなら、危険に陥ることは稀である。ゆえに武装した預言者は皆勝利し、武装しない預言者は滅びた。すでに述べた理由に加え、民衆の性質は移ろいやすい。説得するのは容易だが、その確信を保たせるのは難しい。そのため、民衆が信じなくなったとき、力によって信じさせられるよう備える必要がある。

モーセ、キュロス、テセウス、ロムルスも、武装していなければ、自ら定めた制度を長く守らせることはできなかっただろう。現代の修道士ジローラモ・サヴォナローラに起きたことが、その例である。群衆が信じなくなったとたん、新たな秩序とともに破滅した。信じている者を確信にとどめる手段も、信じない者に信じさせる手段も持っていなかったからである。したがって、このような人物が事業を完成させるには、多大な困難が伴う。あらゆる危険が上り坂に集中するが、力量があれば克服できる。そして困難を克服し、成功を妬む者たちを滅ぼせば、尊敬されるようになり、その後も強大で、安全で、名誉に包まれ、幸福であり続ける。

これらの偉大な例に、より小さな例を一つ加えたい。それでも多少の類似点があり、同種のすべてを代表する例として十分だと思う。それはシラクサのヒエロンである。この人物は私人の身分からシラクサの君主となり、やはり運からは機会以外に何も得ていない。圧迫されていたシラクサ人が彼を司令官に選び、その後、功績への報償として君主にしたのである。私人だった頃からあまりに優れた力量を備えていたため、彼について記した者は、「王となるために欠けていたのは、王国だけだった」と述べている。ヒエロンは旧来の軍隊を廃し、新たな軍隊を組織した。古い同盟を捨て、新しい同盟を結んだ。自前の兵士と同盟者を得たため、そのような基礎の上に、どのような建物でも築けるようになった。こうして獲得には大いに苦労したが、保持にはほとんど苦労しなかった。

第七章 他人の武力または幸運によって獲得される新しい君主国について

私人から、もっぱら幸運によって君主となる者は、昇るのに苦労しないが、頂点にとどまるのに大いに苦労する。昇る途中には、飛んでいくため何の困難もないが、頂上へ着くと多くの困難が待っている。このような者には、金銭と引き換えに、あるいは授与者の恩顧によって国家を与えられた者がいる。たとえばギリシャのイオニアやヘレスポントスの諸都市では、自らの安全と栄光のため都市を維持させようと、ダレイオスが多くの者を君主にした。また、兵士を買収し、一市民から皇帝となった者たちも同様である。そのような者は、自分を引き上げた人物の好意と運という、きわめて移ろいやすく不安定な二つのものだけを土台として高みに立っている。その地位に必要な知識もない。並外れて有能で優れた者でないかぎり、常に私人として暮らしてきた者が、命令する術を知っているとは期待できないからである。加えて、友好的かつ忠実に保てる軍勢を持たないため、地位を維持できない。

したがって、自然界で急に生まれ、急速に成長するほかのあらゆるものと同じく、突然成立した国家は、最初の嵐にも倒されないほど深く土台と支えを据えることができない。ただし、すでに述べたように、思いがけず君主となった者が並外れた力量を持ち、運が懐へ投げ込んだものを保持するため、ただちに備えなければならないと理解している場合は別である。そのような者は、ほかの人々が君主となる

以前に築いた土台を、君主となったあとに築かなければならない。

力量または運によって君主へ昇るこの二つの方法について、現代の記憶に残る二人を例に挙げたい。フランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアである。フランチェスコは適切な手段と優れた力量により、私人からミラノ公となった。そして千々の苦労を重ねて獲得したものを、ほとんど苦労せずに保持した。一方、民衆からヴァレンティーノ公と呼ばれたチェーザレ・ボルジアは、父の権勢によって国家を獲得し、その衰退とともに失った。他人の武力と運が与えた国家へ確固たる根を下ろすため、賢明で有能な者が採るべきあらゆる手段を講じ、行うべきことをすべて行ったにもかかわらずである。

先に述べたとおり、初めに土台を築かなかった者でも、優れた力量があれば後から築けるかもしれない。しかし建築者には苦労が多く、建物には危険が伴う。したがって公爵が講じたあらゆる措置を考察すれば、将来の権力のために堅固な土台を築いたことが分かる。それを論じても無駄ではないと思う。新しい君主へ与えられる教訓として、彼の行動以上に優れた例を知らないからである。その施策が役に立たなかったとしても、それは公爵の責任ではなく、運命の異常かつ極端な悪意によるものだった。

アレクサンデル六世は、息子である公爵を強大にしようと望んだが、当面も将来も多くの困難があった。まず、教会領ではない国家を息子に支配させる道が見つからなかった。教会領を奪うつもりなら、ミラノ公とヴェネツィア人が同意しないと分かっていた。ファエンツァとリミニはすでにヴェネツィア人の保護下にあったからである。さらにイタリアの軍事力、なかでも自分を助けてくれそうな軍事力が、教皇の強大化を恐れる者、すなわちオルシーニ家、コロンナ家、その一党の手中にあることも分かっていた。そのため、この情勢を覆して諸勢力を争わせ、その領土の一部を安全に支配する必要があった。これは容易だった。別の理由に動かされたヴェネツィア人が、フランス人をイタリアへ呼び戻したがっていたからである。教皇は反対しなかったばかりか、ルイ王の以前の結婚を解消することで、それを容易にした。こうして王は、ヴェネツィア人の助力とアレクサンデルの同意を得てイタリアへ入った。王がミラノへ到着するや、教皇はロマーニャを攻めるための兵士を借り受けた。王の名声に威圧されたロマーニャは、教皇に屈した。こうして公爵はロマーニャを獲得し、コロンナ家を打ち破ったが、その地を保持し、さらに進出しようとすると、二つの障害に阻まれた。一つは、自軍が忠実とは思えなかったこと。もう一つは、フランスの好意である。すなわち、使用しているオルシーニ家の軍勢が自分に従わず、さらなる征服を妨げるだけでなく、獲得済みの土地まで奪うのではないか、また王も同じことをするのではないかと恐れた。オルシーニ家については、ファエンツァを奪ったのちボローニャを攻撃した際、彼らがひどく不承不承に戦うのを見て、警戒すべきだと分かった。王の意向については、ウルビーノ公国を奪ったのち自らトスカーナを攻撃したところ、王から事業を断念させられたことで知った。そこで公爵は、もはや他人の武力と運に頼らないと決意した。

まずローマにおけるオルシーニ派とコロンナ派を弱体化させた。両派に従う紳士たちをことごとく自陣営へ引き入れ、自らの臣下とし、十分な俸給を与え、身分に応じて官職や指揮権を授けて厚遇した。その結果、数か月のうちに彼らの派閥への忠誠は完全に消え、すべて公爵へ向けられた。その後、コロンナ家の支持者を離散させたうえで、オルシーニ家を叩き潰す機会を待った。その機会はすぐに訪れ、公爵は巧みに利用した。オルシーニ家は、公爵と教会の強大化が自分たちの破滅につながると、ようやく悟り、ペルージャのマジョーネで会合を開いた。そこからウルビーノの反乱とロマーニャの騒乱が生じ、公爵は無数の危険に直面したが、フランス人の助けによってすべて克服した。権威を回復した公爵は、フランス人にもほかの外部勢力にも依存せず、その権威を危険にさらさぬよう、策略に訴えた。巧みに本心を隠し、シニョール・パゴロの仲介によってオルシーニ家と和解した。公爵はパゴロを味方につけるため、金銭、衣服、馬を贈るなど、あらゆる厚遇を惜しまなかった。こうしてオルシーニ家は、愚かにもシニガリアで公爵の手中に落ちた。指導者たちを滅ぼし、その支持者を味方に変えると、公爵は自らの権力に十分な土台を築いた。ロマーニャ全土とウルビーノ公国を支配し、民衆も繁栄を実感しはじめたため、彼らをことごとく味方につけたのである。この点は注目に値し、ほかの者も見習うべきなので、省略したくない。

公爵がロマーニャを占領したとき、そこは弱い領主たちに支配されていた。彼らは臣民を統治するより略奪し、団結より分裂の原因を多く与えた。そのため国中に強盗、争い、あらゆる暴力が満ちていた。そこで公爵は、平和と権威への服従を取り戻すには、有能な統治者を置く必要があると考えた。そして迅速で残酷な男、メッセル・ラミーロ・ドルコを登用し、最大限の権限を与えた。この男は短期間に、きわめて大きな成功を収め、平和と統一を回復した。その後、公爵は、それほど過大な権限を与え続けるのは得策でないと考えた。ラミーロが憎まれるようになることを疑わなかったからである。そこで国内に、きわめて優れた長官を長とする裁判所を設け、すべての都市から代弁者を置いた。また、以前の苛烈な統治が自分への憎しみをいくらか生んでいると知っていたため、民衆の心から疑念を取り除き、完全に味方につけようとした。そして、残虐な行為があったとしても、それは自分から出たのではなく、執行者の生来の苛烈さによるものだと示そうとした。この口実のもとでラミーロを捕らえ、ある朝、チェゼーナの広場で処刑させ、その遺体を処刑台と血まみれの短剣とともにさらした。この残酷な光景に、民衆は満足すると同時に震え上がった。

だが話を元へ戻そう。公爵は今や十分に強大となり、自らのやり方で武装し、当面の危険からある程度守られていた。さらに、征服を続ける際に危害を加えうる近隣の軍事勢力も、ほぼ打ち砕いていた。次に考慮しなければならなかったのはフランスである。王は過ちに気づくのが遅すぎたため、もはや自分を支援しないと分かっていたからである。この頃から公爵は新たな同盟を求めはじめ、ガエータを包囲していたスペイン人に対し、フランスがナポリ王国へ遠征した際には、フランスへの態度を曖昧にして時間を稼いだ。両国に対して自らの安全を確保するつもりであり、アレクサンデルが生きていれば、すぐに成功していただろう。

以上が当面の事態に対する方針だった。しかし将来については、まず教会の新たな後継者が自分に好意を持たず、アレクサンデルから与えられたものを奪おうとする可能性を恐れなければならなかった。そこで四つの方法を採ることにした。第一に、領土を奪った諸侯の一族を滅ぼし、教皇が介入する口実をなくす。第二に、すでに述べたように、ローマの紳士をすべて味方につけ、その助力で教皇を抑える。第三に、枢機卿会議をできるかぎり自陣営へ引き寄せる。第四に、教皇が死ぬまでに十分な権力を獲得し、自力で最初の衝撃に耐えられるようにする。この四つのうち、アレクサンデルが死んだ時点で、公爵は三つを成し遂げていた。追放した諸侯のうち、捕らえられる者はできるかぎり殺し、逃れた者はわずかだった。ローマの紳士を味方につけ、枢機卿会議でも最大の派閥を有していた。新たな領土獲得については、トスカーナの支配者となるつもりだった。すでにペルージャとピオンビーノを所有し、ピサも保護下に置いていたからである。もはやフランスを警戒する必要もなくなっていた。フランス人はすでにスペイン人によってナポリ王国から追放され、その結果、両国とも公爵の好意を買わざるを得なくなっていた。そこでピサへ襲いかかった。その後、ルッカとシエナも、フィレンツェ人への憎悪と恐怖から、ただちに屈した。フィレンツェ人には打つ手がなかっただろう。アレクサンデルが死んだ年と同じように公爵の繁栄が続いていれば、それほど大きな権力と名声を獲得し、独力で立ち、もはや他人の運や軍事力ではなく、自らの力と力量だけに頼っていただろうからである。

しかしアレクサンデルは、公爵が初めて剣を抜いてから五年後に死んだ。公爵に残されたのは、唯一統治が固まっていたロマーニャだけだった。ほかのすべては宙に浮き、敵対する二つの強大な軍隊に挟まれ、公爵自身も死に瀕する病に倒れていた。それでも公爵には、並外れた大胆さと力量があった。人を味方につけ、あるいは排除する術を熟知し、短期間にきわめて堅固な土台を築いていた。そのため、敵軍に背後を突かれず、健康でさえあれば、あらゆる困難を克服していただろう。土台が堅固だったことは、ロマーニャが一か月以上も公爵の帰還を待ったことから分かる。ローマでも、半死半生の身でありながら安全だった。バリオーニ家、ヴィテッリ家、オルシーニ家がローマへ来ても、公爵に対して何もできなかった。望む人物を教皇にできなかったとしても、少なくとも望まない人物の選出は阻止できただろう。しかしアレクサンデルの死の際に健康だったなら、何もかも違っていたはずである。ユリウス二世が選出された日、公爵は私にこう語った。父の死に際して起こりうることはすべて考え、それぞれに対策を講じていた。ただ一つ、その死が現実になったとき、自分自身も死にかけているとは、まったく予想していなかった、と。

公爵のあらゆる行動を振り返ると、私はどこを非難すべきか分からない。それどころか、すでに述べたように、運や他人の武力によって統治者へ押し上げられたすべての者へ、模範として示すべきだと思う。高邁な精神と遠大な目的を持つ公爵には、ほかの行動のしようがなく、計画を挫折させたのは、アレクサンデルの短命と公爵自身の病だけだった。したがって、新たな君主国で安全を固め、友人を得、武力または欺瞞によって敵を征服し、民衆から愛されると同時に恐れられ、兵士から従われ敬われ、危害を加える力や理由のある者を滅ぼし、旧秩序を新秩序へ変え、苛烈でありながら慈悲深く、寛大で気前よくあり、不忠な軍隊を解体して新軍を創設し、王や君主が熱心に助け、危害を加える際には慎重にならざるを得ないよう友好関係を保つ必要があると考える者は、この人物の行動以上に生き生きとした模範を見いだせない。

非難できるのは、ユリウス二世の選出についてだけである。公爵は誤った選択をした。すでに述べたように、自分の望む教皇を選べなかったとしても、ほかの誰かが教皇に選ばれるのを妨げることはできた。そして自分が危害を加えた枢機卿、あるいは教皇となれば自分を恐れる理由のある枢機卿の選出には、決して同意すべきではなかった。人は恐怖か憎悪から危害を加える。公爵が危害を加えた者には、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカニオらがいた。残りの者も、教皇となれば公爵を恐れざるを得なかった。例外はルーアンとスペイン人枢機卿である。後者には血縁と恩義があり、前者にはフランス王国との関係から影響力があった。したがって公爵は何よりも、スペイン人を教皇にすべきだった。それができなければ、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラではなく、ルーアンに同意すべきだった。新たな恩恵を与えれば大人物が過去の危害を忘れると信じる者は、自らを欺いている。ゆえに公爵は選択を誤り、それが最終的な破滅の原因となった。

第八章 悪行によって君主国を獲得した者について

私人の身分から君主へ昇る方法には、運にも才能にも完全には帰せられないものが二つある。共和国について論じる際には、その一方をより詳しく扱えるだろうが、ここで沈黙すべきではないと思う。その方法とは、邪悪で非道な手段によって君主国へ昇る場合と、同胞市民の好意によって一私人が祖国の君主となる場合である。まず第一の方法について、古代と現代から一例ずつ挙げよう。これ以上深く論じなくても、やむを得ず同じ道を歩む者には、この二例で十分だと思う。

シチリア人アガトクレスは、私人の身分どころか、卑しく下賤な境遇からシラクサ王となった。陶工の息子だったこの男は、運命がどのように変転しても、常に不名誉な生き方をした。それでも悪行に、卓越した心身の力量を伴わせていた。軍務に身を投じると、階級を一段ずつ上り、シラクサのプラエトル[訳注:古代ローマの高位政務官に相当する職]となった。その地位を固めると、自ら君主となることを周到に決意した。そして合意によって委ねられたものを、他人への恩義なしに暴力で奪おうとした。この目的のため、軍を率いてシチリアで戦っていたカルタゴ人ハミルカルと密約を結んだ。ある朝、共和国に関する問題を協議するかのように、シラクサの民衆と元老院を招集し、合図とともに兵士たちが元老院議員全員と裕福な市民を殺害した。彼らが死ぬと、市民の騒乱を招くことなく、その都市の君主権を奪い、保持した。カルタゴ人に二度打ち破られ、ついには包囲されたにもかかわらず、都市を守り抜いただけではない。兵の一部を防衛に残し、残りを率いてアフリカを攻撃し、短期間でシラクサの包囲を解かせた。窮地に追い込まれたカルタゴ人は、アガトクレスと講和せざるを得ず、シチリアを彼に譲り、アフリカの領有だけで満足しなければならなかった。

したがって、この人物の行動と才能を考察すれば、運に帰せられるものは、ほとんど、あるいはまったくないと分かる。すでに示したとおり、誰かの恩顧ではなく、千々の苦労と危険を経て軍務の階段を上り、最高位へ達したからである。そしてその地位を、多くの危険を冒しながら大胆に保持した。それでも、同胞市民を殺し、友人を欺き、信義も慈悲も宗教心も持たぬことを、才能とは呼べない。そのような手段で帝国は得られても、栄光は得られない。とはいえ、危険へ踏み込み、そこから脱するアガトクレスの勇気と、苦難に耐え、それを克服する精神の偉大さを考えれば、最も名高い将軍より劣ると評価すべき理由は見当たらない。それでも、限りない悪行を伴う野蛮な残虐さと非人間性のため、最も優れた人物の一人として称えることはできない。彼が成し遂げたことは、運にも才能にも帰せられない。

現代では、アレクサンデル六世の治世に、オリヴェロット・ダ・フェルモがいた。幼くして孤児となり、母方の叔父ジョヴァンニ・フォリアーニに育てられた。若くしてパゴロ・ヴィテッリのもとへ送られ、その軍律のもとで訓練を積み、軍人として高い地位へ昇ることを期待された。パゴロが死ぬと、その弟ヴィテロッツォのもとで戦った。機知と強健な肉体、旺盛な精神を備えていたため、きわめて短期間で軍中第一の人物となった。しかし他人に仕えることを卑小に思い、祖国の自由より隷属を好むフェルモ市民の一部と、ヴィテッリ家の助力を得て、フェルモを奪おうと決意した。そこでジョヴァンニ・フォリアーニへ手紙を書いた。長年故郷を離れていたので、叔父とその町を訪れ、併せて自分の相続財産を見たい。これまで名誉以外のものを得るために苦労したことはないが、時間を無駄にしなかったと市民に示すため、名誉ある形で帰郷したい。そのため友人や従者である百人の騎兵を伴うつもりであり、フェルモ市民から丁重に迎えられるよう手配してほしい。それは自分だけでなく、育ててくれたジョヴァンニ自身の名誉にもなる、と。

そこでジョヴァンニは、甥にふさわしい心遣いを一つも怠らず、フェルモ市民から丁重に迎えさせ、自邸へ泊めた。数日が過ぎ、邪悪な計画に必要な準備を整えると、オリヴェロットは盛大な宴を開き、ジョヴァンニ・フォリアーニとフェルモの有力者たちを招いた。料理と、宴に付きものの余興がすべて終わると、オリヴェロットは巧みに重大な話題を持ち出し、教皇アレクサンデルと息子チェーザレの偉大さ、その事業について語った。ジョヴァンニらが応じると、オリヴェロットはただちに立ち上がり、このような問題はもっと人目につかない場所で論じるべきだと言って、一室へ移った。ジョヴァンニと残る市民たちも後に続いた。全員が席に着くや、隠れていた兵士が現れ、ジョヴァンニらを殺害した。殺害後、オリヴェロットは馬に乗って町を駆け巡り、宮殿内の最高政務官を包囲した。民衆は恐怖から服従を強いられ、政府を樹立し、オリヴェロットを君主とした。彼は危害を加える力のある不満分子をすべて殺し、新たな民政と軍制によって自らの地位を固めた。その結果、君主国を保持した一年の間に、フェルモ市内で安全を確保しただけでなく、近隣のすべてから恐れられる存在となった。先に述べたように、オルシーニ家やヴィテッリ家とともにシニガリアで捕らえたチェーザレ・ボルジアに出し抜かれなければ、彼を滅ぼすのはアガトクレスを滅ぼすのと同じほど難しかっただろう。こうしてこの親殺しを犯した一年後、勇気と悪行の師と仰いだヴィテロッツォとともに絞殺された。

アガトクレスや同類の者が、無数の裏切りと残虐行為を重ねながら、長年にわたって自国で安全に暮らし、外敵から身を守り、自国民から陰謀を企てられなかったのはなぜか、と不思議に思う者もいるだろう。その一方で、ほかの多くの者は、残虐行為によって、戦乱の不安定な時期はおろか、平時でさえ国家を保持できなかったからである。これは苛烈な手段が、適切に用いられたか、誤って用いられたかの違いによると思う。悪についてよく言うことが許されるなら、一度に断行され、自らの安全のために必要であり、その後は臣民の利益へ転じられる場合を除いて繰り返されないものを、適切に用いられた苛烈さと呼べる。誤って用いられたものとは、初めは数少なくても、時とともに減るどころか増えていくものである。前者を実践する者は、神または人間の助けによって、その統治をある程度穏健なものに変えられる。アガトクレスがそうだった。後者に従う者が地位を維持するのは不可能である。

したがって指摘すべきは、国家を奪う際、簒奪者は自らが加える必要のある危害をすべて綿密に検討し、毎日繰り返さずに済むよう、一挙に実行すべきだということである。そうして民衆を絶えず不安に陥れなければ、安心させ、恩恵によって味方につけられる。臆病や悪い助言のために別の行動を採る者は、常に短剣を手にしていなければならない。臣民を信頼することもできず、臣民も、継続して繰り返される危害のため、君主へ愛着を抱けない。危害は一度に加え、その味わう時間を短くし、反感を少なくすべきである。恩恵は少しずつ与え、その味わいを長く保つべきである。

そして何より君主は、善いものであれ悪いものであれ、不測の事態に迫られて行動を変えずに済むよう、民衆の中で暮らさなければならない。困難な時期になってから必要に迫られても、苛烈な措置を採るには遅すぎる。また穏健な措置を採っても役には立たない。強いられて行ったと見なされ、誰も恩義を感じないからである。

第九章 市民型君主国について

次にもう一つの場合へ移ろう。すなわち、ある有力市民が、悪行や耐えがたい暴力ではなく、同胞市民の好意によって祖国の君主となる場合である。これは市民型君主国と呼ぶことができる。そこへ到達するのに、才能や運が全面的に必要なのではなく、むしろ幸運を生かす抜け目なさが必要である。この種の君主国は、民衆の好意か貴族の好意の、いずれかによって獲得される。どの都市にも、この二つの異なる勢力が存在するからである。民衆は貴族に支配も抑圧もされたくないと望み、貴族は民衆を支配し抑圧したいと望む。この二つの相反する欲望から、都市には三つの結果のいずれかが生じる。君主政、自治、あるいは無政府状態である。

君主国は、機会を得たのがどちらであるかに応じて、民衆か貴族のいずれかによって作られる。貴族は、民衆に対抗できないと見ると、自分たちの中の一人の名声を高め、君主にする。その庇護のもとで野心を満たすためである。民衆もまた、貴族に抵抗できないと見ると、自分たちの中の一人の名声を高め、その権威によって守ってもらうため、君主にする。貴族の助力によって主権を得た者は、民衆の助けによって得た者よりも、地位の維持に苦労する。前者の周囲には、自分を君主と同等だと考える者が多くいるため、望むままに命令することも、扱うこともできないからである。しかし民衆の好意によって主権へ達した者は孤立しており、周囲には命令に従う用意のない者が、ほとんど、あるいはまったくいない。

さらに、貴族を公正な方法で、他人へ危害を与えずに満足させることはできないが、民衆なら満足させられる。民衆の目的は、貴族の目的より正しいからである。貴族は抑圧することを望むが、民衆は抑圧されないことだけを望む。加えて君主は、敵対的な民衆に対しては、数が多いため安全を確保できないが、貴族に対しては、数が少ないため安全を確保できる。敵対的な民衆から予想される最悪の事態は、見捨てられることである。だが敵対的な貴族については、見捨てられるだけでなく、反旗を翻されることも恐れなければならない。貴族は、この種の事柄について先を読み、抜け目がないため、常に早めに動いて自らを救い、勝利しそうな者の恩顧を得ようとする。さらに君主は、常に同じ民衆と暮らさなければならないが、同じ貴族と暮らす必要はない。日々、貴族を作ることも排除することもでき、望むときに権威を与えることも奪うこともできるからである。

この点をさらに明確にするため、貴族は主として二つの見方で判断すべきだと言おう。すなわち、自らの道を君主の運命と完全に結びつけているか、そうでないかである。結びつけており、貪欲でない者は、尊重し愛さなければならない。結びつけていない者は、二つに分けて扱える。小心さと生来の勇気の欠如からそうしている場合は、利用すべきである。なかでも優れた助言をする者を用いるとよい。そうすれば繁栄時には彼らを尊重でき、逆境では恐れる必要がない。だが自らの野心のため、意図的に運命を結びつけるのを避けているなら、君主より自分自身を重んじている証拠である。君主はそのような者を警戒し、公然たる敵と同じように恐れなければならない。逆境になれば、必ず君主を破滅させる側へ回るからである。

したがって、民衆の好意によって君主となった者は、その友好を保つべきである。これは容易にできる。民衆が求めるのは、君主に抑圧されないことだけだからである。しかし民衆に反して、貴族の好意によって君主となった者は、何よりも民衆を味方につけなければならない。民衆を保護下へ置けば、容易にそうできる。人は、害を受けると予想していた相手から恩恵を受けると、その恩人へいっそう強く結びつく。そのため民衆は、自分たちの好意で君主へ押し上げた場合よりも、かえって深い忠誠を抱くようになる。君主はさまざまな方法で民衆の愛情を得られるが、事情に応じて異なるため、一定の規則を示すことはできない。そこで省略するが、繰り返して言えば、君主には民衆の友好が必要であり、さもなければ逆境で安全を保てない。

スパルタの君主ナビスは、ギリシャ全土と、勝利を重ねたローマ軍の攻撃に耐え、彼らを相手に祖国と政権を守った。この危機を克服するために必要だったのは、少数の者に対して自らの安全を固めることだけだった。だが民衆が敵対していれば、それだけでは不十分だっただろう。だからといって、「民衆の上に築く者は泥の上に築く」という陳腐な格言で、この主張に反論してはならない。この言葉が当てはまるのは、私人が民衆を土台とし、敵や政務官に抑圧されたとき、民衆が救ってくれると思い込む場合である。その場合は、ローマのグラックス兄弟やフィレンツェのメッセル・ジョルジョ・スカーリのように、しばしば期待を裏切られるだろう。しかし先に述べたように、すでに地位を確立し、命令することができ、勇気を備え、逆境にひるまず、ほかの必要な資質にも欠けず、決断力と活力によって民衆全体を奮い立たせる君主であれば、民衆に裏切られることは決してない。そして自らが堅固な土台を築いたことが明らかになるだろう。

この種の君主国が危険にさらされるのは、市民的な統治から絶対的な統治へ移行するときである。そのような君主は、自ら直接統治するか、政務官を通して統治する。後者の場合、統治はより弱く不安定になる。政府が、政務官へ登用された市民たちの好意だけに全面的に依存するからである。なかでも混乱の時期には、その市民たちが陰謀や公然たる反抗によって、きわめて容易に政権を倒せる。しかも君主は、騒乱のただ中で絶対権力を行使する機会を持てない。政務官から命令を受けることに慣れた市民や臣民は、混乱のさなかに君主へ従おうとはせず、不安定な時期には、信頼できる者が必ず不足するからである。そのような君主は、平穏な時期に見たものを頼りにはできない。そのときは、市民の側が国家を必要としているからである。そのため誰もが君主に同意し、誰もが約束し、死が遠くにあるときには、誰もが君主のために死にたいと言う。だが混乱の時期となり、国家が市民を必要とするときには、応じる者がほとんどいない。そして、この試みはいっそう危険である。試せるのは一度きりだからだ。したがって賢明な君主は、どのような種類の状況においても、市民が常に国家と君主自身を必要とするような方策を採るべきである。そうすれば、市民は常に忠実であり続ける。

第十章 あらゆる君主国の国力をいかに測るべきか

これらの君主国の性質を検討するにあたっては、もう一つ考慮すべき点がある。すなわち、君主がいざというとき自力で立ちうるだけの力を備えているのか、それとも常に他者の援助を必要とするのか、という点である。これを明確にするために言えば、兵力または財力が豊富で、攻め寄せてくるいかなる敵とも会戦できるだけの軍隊を編成できる者を、私は自力で立ちうる者と考える。一方、野外で敵と対峙できず、城壁の内に籠もって防戦せざるをえない者を、常に他者を必要とする者と考える。前者についてはすでに論じたが、必要があれば改めて触れることにする。後者について言えるのは、そのような君主は都市に十分な糧食を備え、堅固に要塞化し、領外での防衛は一切考えないよう勧めるほかない、ということだけである。都市を堅固にし、臣民に関わるその他の事柄を、先に述べ、今後もたびたび述べるやり方で適切に処理した君主は、敵からもよほど慎重に見極められなければ攻撃されない。人は目に見えて困難な企てを嫌うものであり、堅固な都市を有し、しかも民衆から憎まれていない君主を攻めるのが容易でないことは、誰の目にも明らかだからである。

ドイツの諸都市は完全な自由を保ち、周囲にわずかな領土しか持たず、都合のよいときにだけ皇帝に服従する。皇帝を恐れず、近隣のいかなる勢力をも恐れない。どの都市も、攻略には長い時間と多大な困難を要すると誰もが思うほど堅固に築かれているからである。適切な濠と城壁を備え、十分な火砲を持ち、公共の倉庫には一年分の食糧、飲料、燃料が常に蓄えられている。そればかりか、民衆を平穏に保ち、国家に損失を与えないため、都市の生命と力を支える仕事、すなわち民衆が生活の糧を得ている生業を、共同体にいつでも与えられるようにしている。また軍事訓練を重んじ、それを維持するための規則も数多く設けている。

したがって、堅固な都市を有し、自ら憎悪を招いていない君主は、攻撃されることがない。たとえ攻撃されても、敵は不名誉のうちに退けられるだけである。また世の事象はきわめて移ろいやすいため、何ら妨害を受けずに軍隊を一年間も戦場に留めておくことは、ほとんど不可能である。ここで、民衆が都市の外に財産を持ち、それが焼き払われるのを見れば、もはや辛抱できず、長い包囲と私利私欲のため君主への忠誠を忘れるだろう、と反論する者がいるかもしれない。これに対して私は、力と勇気のある君主なら、あるときは災厄が長く続かないという希望を臣民に抱かせ、あるときは敵の残虐さに対する恐怖を煽り、さらに、あまりに大胆と思われる者たちを巧みに抑えることで、そうした困難をすべて克服できると答える。

さらに敵は通常、到着するとすぐ、民衆の士気がまだ高く、防衛への意欲に燃えているうちに、領内を焼き払い、荒廃させる。ゆえに君主はなおさらためらう必要がない。時が経って民衆の熱が冷めたころには、被害はすでに生じ、災厄は現実となり、もはや打つ手がないからである。それゆえ民衆はかえって君主と結束しようとする。君主を守るために家を焼かれ、財産を失った以上、今度は君主が自分たちに恩義を負ったと考えるからである。人は恩恵を受けることによってだけでなく、自ら恩恵を施すことによっても、相手と強く結ばれる性質を持つ。したがって、すべてをよく考慮するなら、賢明な君主が臣民の生活を支え、彼らを守ることさえ怠らなければ、包囲の初めから終わりまで市民の心を揺るがせずにおくことは難しくない。

第十一章 教会君主国について

残るは教会君主国について語ることだけである。この国では、あらゆる困難は獲得するまでにあり、獲得してしまえば、能力も幸運もなしに維持できる。こうした国々は、宗教に古くから備わる制度によって支えられている。その制度はきわめて強大で、君主がどのように振る舞い、どのように暮らそうとも、国を維持できるほどの力を持つ。この君主たちだけは、国を持ちながら守らず、臣民を持ちながら統治しない。それでも、守られていない国が奪われることはなく、統治されていない臣民も意に介さず、君主から離れようという意思も、その力も持たない。この種の君主国だけが、安全で幸福なのである。しかしそれらは、人知の及ばぬ力によって支えられているため、これ以上は論じない。神によって高められ、維持されているものを論じるのは、思い上がった無謀な人間のすることだからである。

とはいえ、次のように問う者がいるかもしれない。アレクサンデル六世以前には、イタリアの有力者たち――有力者と呼ばれた者だけでなく、どれほど小さな男爵や領主であっても――教会の世俗権力をほとんど重視していなかった。それが今では、フランス王さえ教会の前に震え、教会は王をイタリアから追い払い、ヴェネツィア人を破滅させることさえできた。教会はいかにしてこれほど大きな世俗権力を手にしたのか、と。この事情はよく知られているが、いくらか記憶に呼び戻しておくのも無益ではないと思う。

フランス王シャルルがイタリアへ侵入する以前、この国は教皇、ヴェネツィア人、ナポリ王、ミラノ公、フィレンツェ人によって支配されていた。これらの勢力には、二つの主要な懸念があった。一つは、外国勢力が武装してイタリアへ入ってこないこと。もう一つは、自分たちの誰かが領土を拡大しすぎないことである。なかでも最も警戒されたのは、教皇とヴェネツィア人であった。ヴェネツィア人を抑えるには、フェラーラ防衛の際のように、他の全勢力が結束する必要があった。一方、教皇を抑えるためには、ローマの諸侯が利用された。彼らはオルシーニ家とコロンナ家という二派に分裂し、常に騒乱の口実を抱え、教皇の眼前で武器を手にして対峙することにより、教皇権を弱体化させ、無力な状態に置いた。シクストゥスのような勇気ある教皇が現れることはあっても、幸運も知恵も、この煩いから彼を解放することはできなかった。教皇の在位期間が短いことも、弱さの原因となった。教皇の平均的な在位期間である十年ほどでは、一方の派閥を弱体化させることすら容易でない。仮にある教皇がコロンナ家をほぼ壊滅させても、次の教皇はオルシーニ家と敵対してコロンナ家を援助し、しかもオルシーニ家を滅ぼすだけの時間を持たずに終わる。これこそ、教皇の世俗権力がイタリアで軽視されていた理由である。

その後に登場したアレクサンデル六世は、歴代教皇のうち、教皇が金と武力を用いればどれほど大きな力を振るえるかを最もよく示した人物である。ヴァレンティーノ公を手足として用い、フランス軍の侵入を利用して、彼は先に公の行動として述べたすべてを成し遂げた。その意図は教会を強大にすることではなく、公を強大にすることにあったが、それでも彼の行為は教会の勢力拡大に寄与した。アレクサンデルの死と公の没落ののち、教会がその全成果を相続したからである。

その後に教皇ユリウスが現れた。彼が受け継いだ教会はすでに強大で、ロマーニャ全土を領有し、ローマの諸侯は無力化され、アレクサンデルの懲罰によって諸派閥も一掃されていた。さらにユリウスは、アレクサンデル以前には行われたことのない方法で資金を蓄える道が開かれているのを見いだした。ユリウスはこれらを踏襲するだけでなく、さらに推し進めた。彼はボローニャの獲得、ヴェネツィア人の打倒、フランス人のイタリアからの追放を企てた。そのすべてが成功したが、いっそう称賛に値するのは、個人ではなく教会を強化するために、あらゆることを行った点である。彼はオルシーニ派とコロンナ派を、発見した当時の枠内に抑え続けた。両派にはなお騒乱を起こそうとする気配があったものの、ユリウスは二つの点を堅く守った。一つは、教会の威勢によって彼らを恐れさせること。もう一つは、彼ら自身の枢機卿を持たせないことである。そうした枢機卿こそ、派閥間の騒乱を引き起こす元凶だったからだ。これらの派閥が自派の枢機卿を持てば、長く平穏ではいられない。枢機卿はローマの内外で派閥を育て、諸侯はその支援を強いられる。こうして高位聖職者の野心から、諸侯の間に騒乱と混乱が生じるのである。以上の理由により、教皇レオ聖下が継承した教皇権はきわめて強大であった。他の教皇たちが武力によって教会を偉大にしたのなら、レオはその善良さと無数の美徳によって、教会をさらに偉大で尊敬されるものにするだろうと期待される。

第十二章 軍隊には何種類あるか、ならびに傭兵について

当初論じようとした各種の君主国の性質を個別に考察し、それらが良好あるいは劣悪となる原因をある程度検討し、さらに多くの者が君主国を獲得し維持しようとして用いた方法を示した今、残るのは、それぞれの国に共通する攻撃と防衛の手段について論じることである。

すでに見たとおり、君主にとって、土台を堅固に築くことは不可欠である。そうでなければ、必然的に破滅する。新しい国であれ、古い国であれ、あるいは複合君主国であれ、あらゆる国家の主要な土台は、よい法律とよい軍備である。十分に武装していない国に、よい法律がありうるはずはない。したがって、よく武装した国には、よい法律もあることになる。法律については論じず、ここでは軍備について語る。

君主が自国を守る軍隊は、自国軍、傭兵軍、援軍、またはそれらの混成軍のいずれかである。傭兵軍と援軍は無益で危険であり、これらの軍を土台として国を保つ者は、堅固にも安全にも立ちえない。彼らは団結を欠き、野心的で、規律がなく、不忠である。味方の前では勇敢だが、敵の前では臆病である。神を恐れず、人に対する信義も持たず、破滅が先送りされるのは、攻撃が先送りされている間だけである。平時には傭兵に略奪され、戦時には敵に略奪される。実のところ、彼らが戦場に留まる動機も理由も、わずかな給金以外にはない。その程度の金では、君主のために死ぬ気にはなれない。戦争がない間は喜んで兵士になるが、いざ戦争となれば逃げ去るか、敵から逃走する。これを証明するのは難しくない。イタリアが破滅したのは、長年にわたって傭兵に全希望を託したからにほかならない。彼らもかつては多少の働きを見せ、仲間内の戦争では勇敢に見えたが、外国人が侵入すると、その正体をさらけ出した。こうしてフランス王シャルルは、手に白墨を持っただけでイタリアを占領できたのである[訳注:宿営地を示す印を扉につけるだけで進軍できた、という比喩]。これをわれわれの罪のためだと言った者は正しかった。ただし、その罪とは彼が考えたようなものではなく、私が今述べた罪である。そしてそれは君主たちの罪であったから、その罰を受けたのも君主たちだった。

この軍隊の不幸な性質について、さらに明らかにしたい。傭兵隊長は有能であるか、無能であるかのいずれかである。有能なら信用できない。彼らは常に、自分たちの主人である君主を圧迫するか、君主の意図に反して他者を圧迫することによって、自らの権勢を拡大しようとするからである。無能なら、言うまでもなく君主は破滅する。

ここで、武装した者は傭兵であろうとなかろうと同じように振る舞う、と反論されるかもしれない。私はこう答える。武力に訴えなければならないのが君主であれ共和国であれ、君主なら自ら出陣して指揮官の務めを果たすべきであり、共和国なら自国の市民を指揮官として派遣すべきである。派遣した者が不適任と判明すれば召還し、適任であれば法律によって拘束し、指揮権の範囲を越えさせないようにする。経験が示すところでは、君主も共和国も自力でこそ最大の成果を挙げ、傭兵は害をもたらす以外に何もしない。また、自国軍で武装した共和国を一市民の支配下に置くことは、外国軍で武装した共和国をそうするよりはるかに難しい。ローマとスパルタは、幾世代にもわたって武装と自由を保った。スイス人は完全に武装し、完全に自由である。

古代の傭兵の例としては、カルタゴ人が挙げられる。第一次対ローマ戦争後、カルタゴ人は自国の市民を指揮官としていたにもかかわらず、傭兵たちに圧迫された。エパメイノンダスの死後、テーベ人はマケドニアのフィリッポスを自軍の指揮官に任命したが、フィリッポスは勝利ののち、彼らから自由を奪った。

フィリッポ公の死後、ミラノ人はヴェネツィア人に対抗するため、フランチェスコ・スフォルツァを雇い入れた。スフォルツァはカラヴァッジョで敵を破ると、その敵と同盟し、自らの雇い主であるミラノ人を打倒した。彼の父スフォルツァも、ナポリ女王ジョヴァンナに雇われていながら女王を無防備のまま見捨てたため、女王は王国を守るためアラゴン王に身を委ねざるをえなかった。かつてヴェネツィア人とフィレンツェ人が傭兵によって領土を拡大し、その隊長たちも君主となるどころか、彼らを守ったではないかと言う者がいるかもしれない。これに対して私は、この点ではフィレンツェ人が偶然に恵まれたのだと答える。彼らが恐れるに足る有能な隊長のうち、ある者は勝利せず、ある者は対抗者に阻まれ、またある者は野心を別の方面へ向けた。勝利しなかった者の一人がジョヴァンニ・アクートである。勝利しなかった以上、その忠誠を証明することはできない。しかし彼が勝利していれば、フィレンツェ人が彼の意のままになったであろうことは、誰もが認めるはずである。スフォルツァには常にブラッチョ派が対抗し、互いに監視し合っていた。フランチェスコは野心をロンバルディアへ向け、ブラッチョは教会領とナポリ王国へ向けた。だが、もっと最近の事例を見よう。フィレンツェ人は、私人の身分から最高の名声にまで上りつめた、きわめて慎重な人物パオロ・ヴィテッリを指揮官に任命した。もし彼がピサを攻略していたなら、フィレンツェ人は彼の機嫌を取らざるをえなかったことを、誰も否定できない。彼が敵方の兵となれば抵抗する術はなく、彼を引き留めれば服従を強いられたからである。ヴェネツィア人についても、その功績を検討すれば、自国民を戦争へ送り、武装した貴族と平民が勇敢に戦っていた間は、安全かつ栄光に満ちた行動を取っていたことが分かる。これは彼らが陸上の事業に乗り出す以前のことである。陸上戦を始めると、彼らはこの美徳を捨て、イタリアの慣習に従った。陸上で領土を拡大し始めた当初は、領土もさほど広くなく、名声も高かったため、隊長たちをそれほど恐れる必要はなかった。だがカルマニョーラの時代のように領土が拡大すると、彼らはこの過ちの苦い味を知った。ヴェネツィア人は彼をきわめて勇敢な人物と認め、その指揮下でミラノ公を破った。しかし一方で、戦争に熱意を失っていることも知った。彼の指揮下ではもはや勝利できないと恐れたが、解任する意思も、そうする力もなかった。そこで、獲得したものを失わず、自らの安全を確保するため、彼を殺害せざるをえなかった。その後、バルトロメオ・ダ・ベルガモ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリーノ、ピティリアーノ伯などを指揮官にしたが、彼らのもとでは獲得ではなく損失を恐れなければならなかった。実際、後にヴァイラでは、一度の戦いで、八百年をかけ苦労して獲得したものを失った。このような軍隊による征服は遅々として進まず、時間がかかるわりに成果は乏しいが、敗北は突然で、壊滅的なのである。

以上の例を通じて、長年にわたり傭兵に支配されてきたイタリアへ話が及んだので、彼らについてさらに掘り下げたい。その起源と発展を知れば、対抗する備えもいっそう整うからである。近年のイタリアでは帝国の権威が排斥され、教皇がより大きな世俗権力を獲得し、イタリアがいっそう多くの国家に分裂した。その理由は、多くの大都市が、かつて皇帝の庇護を受けて自分たちを圧迫していた貴族に対し、武器を取って立ち上がったことにある。教会は世俗権力を得るため、これらの都市を援助した。また多くの都市では、市民が君主となった。こうしてイタリアは、一部が教会の、一部が共和国の手に落ちた。教会は聖職者から成り、共和国は武器に慣れていない市民から成っていたため、どちらも外国人を兵として雇い始めた。

この種の軍隊に初めて名声を与えたのは、ロマーニャ出身のアルベリーゴ・ダ・コニオである。彼の門下から、とりわけブラッチョとスフォルツァが現れ、当時のイタリアの命運を左右した。その後に、今日までイタリア軍を率いてきた他の傭兵隊長たちが続いた。彼らのあらゆる武勇がもたらした結末は、イタリアがシャルルに蹂躙され、ルイに略奪され、フェルディナンドに荒らされ、スイス人に侮辱されることだった。彼らが採った第一の方針は、自らの評価を高めるため、歩兵の価値を低下させることであった。領地を持たず給金だけで生活していた彼らには、多数の兵士を養う力がなく、少数の歩兵では権威を得られなかったからである。そこで騎兵を用いるようになり、適度な数の騎兵だけで生活と名誉を保った。ついには、二万の兵から成る軍隊のうち、歩兵が二千人にも満たないありさまとなった。さらに彼らは、自分と兵士の疲労や危険を減らすため、あらゆる工夫を凝らした。戦闘では敵を殺さず、捕虜にして、身代金も取らずに解放した。夜間に都市を攻撃せず、都市の守備隊も夜間に陣営を攻撃しなかった。陣営を柵や濠で囲まず、冬季には戦役を行わなかった。これらすべてが彼らの軍規によって認められ、先に述べたとおり、疲労と危険を避けるために考案された。こうして彼らは、イタリアを隷属と侮蔑へと追いやったのである。

第十三章 援軍、混成軍、自国軍について

もう一つの無益な軍隊である援軍とは、ある君主に軍勢を率いて援助と防衛に来てもらう場合に用いられるものである。近年、教皇ユリウスが行ったのがその例である。フェラーラ攻略に際し、傭兵が役に立たないと知ったユリウスは援軍に頼り、スペイン王フェルディナンドと協定を結び、兵員と武器による援助を求めた。この軍隊はそれ自体としては有用で優秀な場合もあるが、招き入れた側にとっては常に不利である。敗れれば自分も破滅し、勝てばその軍の虜となるからだ。

古代史にも例は満ちているが、私は教皇ユリウス二世のこの近年の例を省くつもりはない。その危険性は誰の目にも明らかだからである。フェラーラを獲得しようとしたユリウスは、全面的に外国人の手へ身を委ねた。だが幸運にも第三の事態が生じ、無謀な選択の報いを受けずに済んだ。ラヴェンナで援軍が敗北したのち、スイス人が蜂起し、ユリウス自身を含むあらゆる者の予想に反して、勝者を追い払ったのである。その結果、敵は逃走したため敵の捕虜にもならず、援軍以外の武力によって勝利したため援軍の捕虜にもならなかった。

フィレンツェ人はまったく軍隊を持たなかったため、ピサ攻略に一万のフランス兵を送り込んだが、そのため過去のいかなる苦難の時期よりも大きな危険に身をさらした。

コンスタンティノープル皇帝は、近隣諸国に対抗するため、一万のトルコ兵をギリシャへ送り込んだ。戦争が終わっても彼らは退去しようとせず、これが異教徒によるギリシャ支配の始まりとなった。

したがって、勝利を望まない者だけがこの軍を用いればよい。援軍は傭兵よりはるかに危険だからである。援軍による破滅は、最初から出来上がっている。全員が団結し、他の君主に服従しているからだ。一方、傭兵は勝利した後で君主に害をなすにも、より長い時間と好機を必要とする。彼らは一つの共同体に属さず、君主自身が集め、給金を払っており、君主が隊長に任命した第三者も、ただちに君主を害せるほどの権威を持つことはできない。要するに、傭兵で最も危険なのは臆病であり、援軍で最も危険なのは勇敢さである。ゆえに賢明な君主は常にこれらを避け、自国軍を用いてきた。他者の軍で勝つより、自国軍で敗れるほうを望み、他者の武力によって得た勝利を真の勝利とは考えなかったのである。

私はチェーザレ・ボルジアとその行動を引き合いに出すことを、決してためらわない。この公は援軍を率いてロマーニャへ入り、フランス兵だけを伴って、イーモラとフォルリを攻略した。しかしその軍が頼りにならないと見ると、より危険が少ないと判断して傭兵へ転じ、オルシーニ家とヴィテッリ家の軍を雇った。やがて彼らを扱ううち、疑わしく、不忠で、危険であると見抜くと、これを滅ぼして自国軍へ切り替えた。これら三種の軍の違いは、公の名声が、フランス軍を擁していたとき、オルシーニ家とヴィテッリ家の軍を擁していたとき、そして忠誠を常に信頼できる自国兵に頼るようになったときで、どれほど異なっていたかを考えれば容易に分かる。公が自軍を完全に掌握していると誰の目にも明らかになったときほど、高く評価されたことはなかった。

イタリアと近年の事例以外を持ち出すつもりはなかったが、先に名を挙げた者の一人であるシラクサのヒエロンを省くわけにはいかない。前述のとおり、シラクサ人によって軍の最高指揮官に任命されたヒエロンは、われわれイタリアのコンドッティエーレ[訳注:傭兵隊長]と同じように編成された傭兵軍が役に立たないことを、すぐに見抜いた。彼らを留めておくことも、解雇することもできないと判断すると、全員を皆殺しにした。その後は外国人ではなく、自国軍によって戦争を行った。

この主題にふさわしい旧約聖書の一例も思い起こしたい。ダビデがペリシテ人の勇士ゴリアテと戦うことをサウルに申し出ると、サウルは勇気づけるため、自分の武具をダビデに着せた。だがダビデは、これでは自由に動けないと言い、身につけるや否や脱ぎ捨て、投石器と短刀で敵に立ち向かうことを望んだ。要するに、他者の武器は肩からずり落ちるか、重くのしかかるか、身体を縛りつけるかのいずれかなのである。

ルイ十一世の父シャルル七世は、幸運と武勇によってフランスをイングランド人から解放すると、自国軍で武装する必要を認め、王国内に重装騎兵と歩兵に関する軍制を設けた。だがその後、息子のルイ王は歩兵を廃止してスイス兵を雇い始めた。この誤りは、さらに別の誤りと重なり、今や明らかなように、その王国を危険にさらす原因となっている。スイス兵の名声を高める一方で、自国軍の価値を完全に損なったからである。歩兵はすべて廃止され、重装騎兵も外国兵に従属させられた。彼らはスイス兵とともに戦うことに慣れきってしまい、今ではスイス兵なしに勝利できないように見える。したがってフランス人はスイス人に対抗できず、またスイス人なしでは他国の軍に対しても満足に戦えない。こうしてフランス軍は、一部が傭兵、一部が自国兵という混成軍となった。この二つを合わせた軍は、傭兵だけ、あるいは援軍だけよりははるかに優れているものの、純粋な自国軍には大きく劣る。この例がそれを証明している。シャルルの軍制が拡充されるか、少なくとも維持されていたなら、フランス王国は征服不可能だったはずである。

しかし人間の浅い知恵は、初めに好ましく見える事業へ踏み込むと、その内に隠れた毒を見抜けない。これは先に、消耗熱について述べたとおりである。したがって、君主国を統治する者が、災厄が身に迫るまでそれを見抜けないなら、真に賢明とはいえない。そしてこの洞察力を持つ者は少ない。ローマ帝国最初の衰退を調べれば、その始まりはゴート族を雇い入れたことにあったと分かる。その時からローマ帝国の活力は衰え始め、帝国を興隆させた武勇は、ことごとく他者へ移っていった。

ゆえに私は、自国軍を持たない君主国に安全はないと結論する。自国軍がなければ、逆境から自らを守る力量を欠き、全面的に幸運へ依存することになる。自らの力を土台としない名声や権力ほど、不確かで不安定なものはない――これは常に賢者たちの意見であり、判断であった。自国軍とは、臣民、市民、または自らに従属する者から成る軍隊である。それ以外はすべて傭兵または援軍である。私が示した原則をよく考え、アレクサンドロス大王の父フィリッポスや、多くの共和国と君主がどのように武装し、軍を組織したかを検討すれば、自国軍を整える方法は容易に見いだせる。私は全面的に、これらの原則に依拠するものである。

第十四章 軍事について君主がなすべきこと

君主は、戦争とその規則および訓練以外の目的や考えを持たず、それ以外のものを研究対象として選ぶべきではない。これこそ統治者に属する唯一の技術であり、その力は、生まれながらの君主をその地位に留めるだけでなく、しばしば私人をその地位まで引き上げるほど強い。反対に、君主が軍備より安楽を重んじれば、国を失うことが分かる。国を失う第一の原因は、この技術を怠ることであり、国を獲得させるものは、この技術を身につけることである。フランチェスコ・スフォルツァは、武勇に優れていたため私人からミラノ公となった。その息子たちは、軍事の苦労と困難を避けたため、公から私人へ転落した。武装していないことがもたらす数々の害のなかでも、とりわけ重大なのは軽蔑を招くことである。これは、後に示すとおり、君主が自らを守るべき不名誉の一つである。武装した者と武装していない者の間には、釣り合いがまったく存在しない。武装した者が、武装していない者に進んで服従することも、武装していない主人が武装した家臣のなかで安全であることも、道理に合わない。一方には侮蔑が、他方には疑念が生じるため、両者が協力してうまく働くことはできない。したがって、戦術を理解しない君主は、すでに述べた他の災厄に加え、兵士から尊敬されることも、彼らを信頼することもできない。ゆえに君主は、戦争について考えるのを決してやめてはならず、平時には戦時以上にその訓練へ励まなければならない。その方法は二つあり、一つは実践、もう一つは研究である。

実践について言えば、君主は何よりも軍をよく組織して訓練し、絶えず狩猟に励むべきである。それによって身体を困苦に慣らし、土地の性質を学び、山々がどのように隆起し、谷がどのように開け、平野がどのように広がり、河川や沼沢がいかなる性質を持つかを見極める。そしてこれらすべてに、最大の注意を払わなければならない。この知識は二つの面で役立つ。第一に、自国の地理を知り、その防衛にいっそう適切に取り組めるようになる。第二に、ある土地を知り観察することで、後に調べる必要が生じる他の土地についても容易に理解できるようになる。たとえばトスカーナの丘陵、渓谷、平野、河川、沼沢は、他国のそれらとある程度似ている。そのため一国の地形を知れば、他国の地形も容易に把握できる。この技量を欠く君主は、指揮官に必要な最も本質的なものを欠いている。この知識によって、敵を奇襲し、宿営地を選び、軍を率い、戦列を整え、有利に都市を包囲できるようになるからである。

アカイア人の君主フィロポイメンは、著述家たちが彼に与えた数々の賛辞のなかでも、平時に戦争の規則以外のことを決して考えなかった点を称賛されている。友人たちと野外にいると、しばしば立ち止まって、こう論じた。「もし敵があの丘に陣取り、われわれの軍がここにいるとすれば、どちらが有利か。戦列を維持しつつ敵へ進むには、どうするのが最善か。退却しようとするなら、どうすべきか。敵が退却したなら、どう追撃すべきか。」

そして歩きながら、軍隊に起こりうるあらゆる事態を友人たちに示し、彼らの意見を聞いてから自分の意見を述べ、理由を挙げて裏づけた。こうした絶え間ない議論のおかげで、戦時になっても、対処できない不測の事態に直面することがなかった。

一方、知性を鍛えるため、君主は歴史書を読み、そこに記された偉人たちの行動を研究すべきである。彼らが戦争でどう振る舞ったかを見て、勝利と敗北の原因を検討し、敗因を避け、勝因を見習わなければならない。何より、かつて称賛され名声を得た人物を模範に選び、その功績と行為を常に念頭に置いた偉人たちにならうべきである。アレクサンドロス大王がアキレウスを、カエサルがアレクサンドロスを、スキピオがキュロスを模倣したといわれるのが、その例である。クセノポンの著した『キュロスの教育』を読む者は、後にスキピオの生涯を見れば、この模倣が彼にどれほどの栄誉をもたらしたかを悟るだろう。また貞節、親しみやすさ、人間味、寛大さにおいて、スキピオがクセノポンの描いたキュロスにいかによく倣ったかも理解するだろう。賢明な君主はこのような原則を守り、平時にも決して怠惰に陥らず、逆境に役立つよう勤勉に力を蓄えるべきである。そうすれば運命が一変しても、その打撃に立ち向かう備えができている。

第十五章 人間、とりわけ君主が称賛または非難される事柄について

次に、臣民や友人に対する君主の行動原則を考察しなければならない。この問題については多くの者がすでに書いていることを承知しているため、私が改めて論じれば、思い上がっていると思われるだろう。とりわけ私は、この問題を扱うにあたり、他の人々とは異なる道を取るからである。しかし私の目的は、理解する者にとって有益なものを書くことにある。それゆえ、物事について空想された姿ではなく、現実の真実を追究するほうがふさわしいと考える。多くの者が、現実には一度も知られず、見られたこともない共和国や君主国を思い描いてきた。人が現実に生きるあり方と、生きるべきあり方との間には、あまりに大きな隔たりがあるからである。現実になされていることを顧みず、なされるべきことだけを追い求める者は、自らを守るより先に、自らを滅ぼすことになる。あらゆる点で善を行おうとする者は、悪人に満ちた世界のなかで、ほどなく破滅せざるをえない。

したがって、自らの地位を守ろうとする君主は、善から外れる方法を知り、必要に応じてそれを用いるか、用いないかを選べなければならない。そこで君主についての空想を捨て、現実について論じることにしよう。人間は誰であれ、とりわけ高い地位にいるため注目されやすい君主は、非難または称賛をもたらす何らかの性質によって評価される。すなわち、ある者は気前がよいと評され、別の者はけちだと評される。ここではトスカーナの言葉を用いている。われわれの言葉で「貪欲な者」とは、強奪によって財産を得ようとする者を指し、「けちな者」とは、自分の財産を使うことさえ過度に惜しむ者を指すからである。ある者は寛大、別の者は強欲、ある者は残酷、別の者は慈悲深い。ある者は不実、別の者は誠実、ある者は軟弱で臆病、別の者は大胆で勇敢。ある者は親しみやすく、別の者は高慢、ある者は好色で、別の者は貞潔。ある者は率直、別の者は狡猾、ある者は頑固、別の者は柔順、ある者は重厚、別の者は軽薄、ある者は信心深く、別の者は不信心である、といった具合である。善いとされる以上の性質をすべて備えた君主が、最も称賛に値することは誰もが認めるだろう。しかし人間の置かれた条件がそれを許さない以上、君主がそのすべてを完全に備え、常に守ることはできない。したがって、自分から国を奪うような悪徳への非難を避ける術を知るだけの慎重さが必要である。また国を失わせない悪徳についても、可能なら避けるべきだが、それが不可能なら、それほどためらわず身を委ねてもよい。さらに、国を守るには避けがたい悪徳のために非難を受けても、心を悩ませる必要はない。すべてを慎重に考察すれば、美徳に見えるものでも、それに従えば破滅を招く場合があり、反対に悪徳に見えるものでも、それに従えば安全と繁栄をもたらす場合があると分かるからである。

第十六章 気前のよさと吝嗇について

まず先に挙げた性質の第一から始めよう。気前がよいと評されることは望ましい。しかし、その評判をもたらさない形で発揮される気前のよさは、君主に害を与える。誠実に、あるべき形でそれを実践しても、人に知られないことがあり、反対の評判、すなわちけちだという非難を免れないからである。したがって、人々の間で気前のよい人物という名声を保とうとする者は、豪奢を示す機会を何一つ逃せなくなる。そのような傾向を持つ君主は、やがてあらゆる財産を使い果たす。そして気前がよいという名声を保とうとすれば、ついには民衆に過大な負担を負わせ、重税を課し、金を得るためにできることを何でも行わざるをえない。するとほどなく臣民から憎まれ、貧しくなれば誰からも軽んじられる。その結果、気前のよさによって多くの者を害し、わずかな者だけに利益を与え、最初の困難に打ちのめされ、最初の危険にさらされることになる。自らこの事実に気づき、方針を改めようとすれば、今度はたちまち、けちだとの非難を浴びる。

したがって、気前のよさという美徳は、その評判を得られる形で実践すれば自らを害するため、賢明な君主は、けちだという評判を恐れるべきではない。時が経てば、むしろ気前がよいと評されるよりも尊敬されるようになる。倹約によって収入が十分となり、あらゆる攻撃から自国を守り、民衆に負担をかけずに事業を行えると分かるからである。こうして君主は、財産を取り上げない無数の人々に対しては気前よく振る舞い、財産を与えない少数の人々に対してだけ、けちに振る舞うことになる。

われわれの時代には、けちだと評された者だけが偉大な事業を成し遂げ、それ以外の者は失敗した。教皇ユリウス二世は、気前がよいという評判に助けられて教皇位に就いたが、フランス王と戦争を始めると、その評判を保とうとはしなかった。しかも臣民に臨時税を課すことなく、多くの戦争を遂行した。長年の倹約による蓄えで、追加の支出を賄えたからである。現在のスペイン王も、気前がよいと評されていたなら、これほど多くの事業に着手し、勝利することはできなかっただろう。したがって君主は、臣民から略奪せずに済み、自国を守ることができ、貧窮して卑しめられず、強欲にならずに済むなら、けちだという評判をほとんど意に介すべきではない。それは君主に統治を可能にする悪徳の一つだからである。

ここで、カエサルは気前のよさによって帝国を獲得し、他にも多くの者が、気前がよく、そう評されたことで最高の地位に上ったではないか、と言う者がいるかもしれない。私はこう答える。すでに君主である場合と、君主になろうとしている場合とでは事情が異なる。前者では気前のよさは危険であり、後者では気前がよいと思われることがきわめて重要である。カエサルはローマで最高の地位に上ろうとした者の一人だった。しかし最高位に就いた後も生き続け、支出を抑えなかったなら、その統治を破壊していただろう。また、非常に気前がよいと評されながら、軍隊を率いて大事業を成し遂げた君主も多い、と反論する者がいるかもしれない。私はこう答える。君主が使うのは、自分または臣民の財産か、他者の財産かのいずれかである。前者なら節約すべきであり、後者なら気前のよさを示す機会を逃すべきではない。軍を率いて遠征し、略奪、掠奪、強奪によって軍を養い、他者の財産を扱う君主には、この気前のよさが必要である。さもなければ兵士が従わないからだ。自分のものでも臣民のものでもない財産なら、キュロス、カエサル、アレクサンドロスのように、惜しみなく与えることができる。他人の財産を浪費しても、名声は損なわれるどころか、むしろ高まる。害をなすのは、自分の財産を浪費する場合だけである。

気前のよさほど急速に財産を消耗させるものはない。それを発揮するそばから、発揮する力そのものを失い、貧しくなって軽蔑されるか、貧困を避けようとして強欲になり、憎まれるかのいずれかとなる。君主が何より避けるべきなのは、軽蔑と憎悪であり、気前のよさはその両方へ導く。したがって、気前がよいという名声を求めて強欲になり、非難とともに憎悪まで招くより、憎悪を伴わない非難だけを招く、けちという評判を甘受するほうが賢明である。

第十七章 残酷さと慈悲について、また愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか

次に、先に挙げた他の性質へ移ろう。どの君主も、残酷ではなく慈悲深いと評されることを望むべきである。とはいえ、その慈悲を誤用しないよう注意しなければならない。チェーザレ・ボルジアは残酷だと評された。それでも、その残酷さによってロマーニャを和解させ、統一し、平和と忠誠を回復した。正しく考察すれば、残酷だとの評判を避けるためにピストイアの破壊を許したフィレンツェ人より、はるかに慈悲深かったことが分かる。したがって君主は、臣民を団結させ忠実に保つかぎり、残酷だという非難を気にかけるべきではない。わずかな見せしめによって秩序を回復する君主は、過度な慈悲から混乱を許し、その結果として殺人や略奪を引き起こす者より、はるかに慈悲深いからである。混乱は民衆全体を傷つけるが、君主が命じる処刑は特定の個人だけを傷つける。

あらゆる君主のなかでも、新しい君主が残酷との非難を免れることは不可能である。新しい国家は危険に満ちているからだ。そこでウェルギリウスは、ディドの口を借り、新しい統治ゆえの非情さを次のように弁明させている。

「事態の厳しさと新しい王国ゆえに、私はかかる策をめぐらし、

広き国境を守備兵に守らせざるをえないのだ。」

とはいえ君主は、軽々しく信じたり行動したりしてはならず、
自ら恐怖をあらわにしてもならない。慎重さと人間味をもって
節度ある道を進み、過信によって不用心にならず、過度の猜疑によって
耐えがたい人物にならないようにすべきである。

ここから一つの問題が生じる。愛されることと恐れられることの、どちらがよいのか。両方であることが望ましい、と答えられる。しかし両者を一人の人物に兼ね備えるのは難しいため、どちらか一方を捨てなければならないなら、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である。人間一般について、次のように言えるからだ。人間は恩知らずで、移り気で、偽善的で、臆病で、強欲である。君主が成功している間は、全面的に味方となる。先に述べたとおり、危険が遠くにあるうちは、血も財産も生命も子供も差し出すと言う。だが危険が迫れば、君主に背を向ける。彼らの約束だけを頼り、他の備えを怠った君主は破滅する。金銭によって得られた友情は、精神の偉大さや高潔さによって得られたものではないため、買うことはできても、確実に所有することはできず、必要なときに当てにならないからである。また人間は、恐れている者より愛している者を傷つけることに、ためらいを感じない。愛は恩義の絆によって保たれるが、人間は卑しいため、自分に利益となる機会があれば、その絆をいつでも断ち切る。一方、恐れは決して消えない処罰への不安によって保たれる。

とはいえ君主は、愛されなくとも、憎まれないような形で恐怖を抱かせなければならない。憎まれずに恐れられることは十分可能であり、市民と臣民の財産および女性に手を出さないかぎり、必ずそうできる。誰かの生命を奪う必要がある場合は、十分な正当性と明白な理由があるときだけ実行すべきである。何より他者の財産には手を触れてはならない。人間は父親の死より、家産を失ったことのほうを早く忘れないからである。しかも財産を奪う口実は決して尽きない。一度略奪によって暮らし始めた者は、他者の財産を奪う口実を常に見つける。反対に、生命を奪う理由は見つけにくく、すぐに消滅する。だが君主が軍隊とともにあり、多数の兵士を指揮下に置いている場合は、残酷だという評判を意に介さないことが絶対に必要である。その評判なしには、軍を団結させ、任務に服させることができないからだ。

ハンニバルの驚くべき功績の一つに、次のことが数えられている。彼は多種多様な民族から成る巨大な軍を率い、異国の地で戦ったが、運勢がよいときも悪いときも、兵士同士の不和も、指揮官に対する反乱も生じなかった。これは彼の非人間的な残酷さによるほかない。その残酷さが無限の武勇と結びついたことで、兵士たちから畏敬され、恐れられたのである。残酷さがなければ、他の美徳だけではこの効果を生み出せなかった。ところが近視眼的な著述家たちは、一方ではその功績を称賛しながら、他方では功績の主要な原因を非難する。他の美徳だけでは不十分だったことは、スキピオの例によって証明できる。スキピオは自分の時代だけでなく、人類の記憶に残る者のなかでも最も優れた人物だったが、スペインで軍隊の反乱に遭った。その原因は、彼があまりに寛容で、軍紀と相容れないほどの自由を兵士に許したことだけにある。このため元老院でファビウス・マクシムスから叱責され、ローマ軍を堕落させた者と呼ばれた。ロクリ人はスキピオの副将によって荒らされたが、スキピオは彼らの仇を討たず、副将の横暴も処罰しなかった。すべてはその寛大すぎる性格のためである。元老院では、スキピオを弁護しようとした者が、世の中には、自ら過ちを犯さない術には長けていても、他者の過ちを正す術を知らない者が多い、と述べたほどである。もしスキピオが引き続き最高指揮権を握っていたなら、この性質はやがて彼の名声と栄光を破壊しただろう。しかし元老院の統制下にあったため、この有害な性質は表面化しなかったばかりか、かえって彼の栄光に寄与した。

恐れられることと愛されることの問題へ戻るなら、人間は自分の意思で愛し、君主の意思によって恐れるのだから、賢明な君主は、他者の支配下にあるものではなく、自分の支配下にあるものを土台とすべきだ、という結論に至る。ただし、すでに述べたように、憎悪だけは避けるよう努めなければならない。

第十八章 君主はいかに信義を守るべきか

君主が信義を守り、狡猾さに頼らず誠実に生きることが、いかに称賛に値するかは誰もが認めている。しかしわれわれの経験では、偉大な事業を成し遂げた君主たちは信義をほとんど重視せず、狡猾さによって人々の知性を欺く術を心得、最後には自分たちの言葉を信頼した者に勝利してきた。争う方法には二つあることを知らねばならない。一つは法律による方法、もう一つは力による方法である。第一の方法は人間にふさわしく、第二の方法は獣にふさわしい。しかし第一の方法だけでは足りないことが多いため、第二の方法に訴える必要がある。したがって君主は、獣と人間の双方を使いこなす術を理解しなければならない。古代の著述家たちは、これを比喩によって君主たちに教えた。アキレウスをはじめとする古代の多くの君主が、ケンタウロスのケイロンに預けられ、その教えのもとで育てられたと記しているのがそれである。半獣半人の者を師としたということは、君主が両方の性質を用いる術を知る必要があり、一方だけでは長続きしないことを意味する。したがって君主は、獣の性質を採らざるをえないなら、狐と獅子を選ぶべきである。獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからだ。ゆえに罠を見抜く狐となり、狼を恐れさせる獅子となる必要がある。獅子だけを頼りにする者は、事態を理解していない。したがって賢明な君主は、信義を守ることが自らに不利となり、約束した理由がすでに失われた場合、信義を守ることができないし、守るべきでもない。人間が完全に善良なら、この原則は成り立たない。しかし人間は悪く、君主に対して信義を守らないのだから、君主も彼らに対して信義を守る義務はない。しかも約束を守らなかったことを弁明する正当な理由は、君主にとって決して尽きることがない。これについては現代の例を無数に挙げられる。君主の不信によって、どれほど多くの条約や盟約が破棄され、無効となったことか。そして狐を使う術に最も長けた者が、最も大きな成功を収めたのである。

ただし、この性質を巧みに覆い隠し、偽装と欺瞞の達人になる必要がある。人間はあまりに単純で、目先の必要にあまりに支配されているため、欺こうとする者は、騙される者を必ず見つける。近年の一例を黙って見過ごすことはできない。アレクサンデル六世は、人を欺く以外に何もせず、それ以外のことを考えたこともなかった。それでも常に騙される者を見つけた。彼ほど力強く断言し、これほど大仰な誓いを立てながら、実際にはそれを守らなかった人物はいない。それにもかかわらず、その欺瞞は常に思いどおりに成功した。彼が人間のこの側面を熟知していたからである。

したがって君主は、私が列挙した善い性質をすべて実際に持つ必要はないが、持っているように見せることは絶対に必要である。さらにあえて言えば、それらを持ち、常に守ることは有害だが、持っているように見せることは有益である。慈悲深く、誠実で、人間味があり、信心深く、正直であるように見せ、実際にもそうあるべきだ。ただし、そうであってはならない必要が生じたときには、反対の性質へ変わることができ、その方法も心得ているよう、心を整えておかなければならない。

君主、とりわけ新しい君主は、人々が善いと評価することをすべて守れるわけではない、と理解しなければならない。国家を維持するためには、しばしば信義、友情、人間味、宗教に反して行動せざるをえないからである。それゆえ、運命の風向きと変転に応じて向きを変えられる心を持つ必要がある。ただし先に述べたとおり、可能なら善から離れず、必要に迫られたなら、悪へ踏み込む術を心得ていなければならない。

このため君主は、先に挙げた五つの性質に満ちていない言葉を、決して口から漏らさないよう注意すべきである。君主を見る者、言葉を聞く者の目に、完全に慈悲深く、誠実で、人間味があり、正直で、信心深い人物と映るようにするためだ。なかでも最後の性質を持っているように見せることほど重要なものはない。人間は一般に、手で触れることより目で見ることによって判断するからである。君主を見ることは誰にでもできるが、直接触れて実体を知ることのできる者は少ない。誰もが外見を見るが、実際の姿を知る者はわずかしかいない。そしてその少数者も、国家の威厳に守られた多数者の意見へ、あえて逆らおうとはしない。あらゆる人間、とりわけ君主の行為は、異議を唱える裁判所が存在しないため、結果によって判断される。

したがって君主は、勝利して国家を維持するという評判さえ得ればよい。その手段は常に立派なものと見なされ、誰からも称賛される。世の大衆は、物事の外見と結果だけに心を奪われるからである。そして世界には大衆しかいない。少数者が居場所を得るのは、多数者が依拠するものを失ったときだけである。

現代のある君主――名を挙げるのは差し控える――は、平和と信義以外のことを決して説かないが、その実、どちらに対しても最大の敵である。もし平和や信義のどちらか一方でも守っていたなら、幾度となく名声と王国を失っていただろう。

第十九章 軽蔑と憎悪を避けるべきこと

さて、先に挙げた性質のうち、重要なものについてはすでに論じた。残りについては、次の一般原則のもとで簡潔に述べたい。すでに一部述べたように、君主は自らを憎ませ、あるいは軽蔑させる事柄を避けるよう心がけなければならない。それに成功するたびに、自らの役目を果たしたことになり、その他の非難が危険をもたらすことを恐れる必要はない。

先に述べたように、何よりも君主を憎ませるのは、強欲であること、そして臣民の財産と女性を侵すことである。ゆえに、この二つは慎まなければならない。財産も名誉も侵されなければ、大多数の人間は満足して暮らす。君主が対処すべきなのは少数者の野心だけであり、それは多くの方法で容易に抑えられる。

一方、君主が移り気で、軽薄で、軟弱で、卑小で、優柔不断だと思われれば、軽蔑を招く。君主はこれらを暗礁のように避け、その行動に偉大さ、勇気、重厚さ、断固たる態度を示すよう努めるべきである。また臣民との私的な関係においても、自らの判断が覆らないことを示し、誰も君主を欺いたり、言いくるめたりできると期待しないほどの評判を保たなければならない。

このような印象を与える君主は高く評価され、高く評価される者に対して陰謀を企てるのは容易でない。君主が優れた人物であり、民衆から尊敬されていると広く知られていれば、攻撃することも難しいからである。したがって君主には、二つの恐れがある。一つは臣民に由来する国内の恐れ、もう一つは外国勢力に由来する国外の恐れである。後者に対しては、よく武装し、よい同盟者を持つことで身を守れる。よく武装していれば、よい友も得られる。国外が平穏であれば、陰謀によってすでに乱されていないかぎり、国内も常に平穏に保たれる。たとえ国外が乱れても、君主が私の述べたように備えを整え、生きてきたなら、絶望しないかぎり、スパルタのナビスについて述べたように、あらゆる攻撃に耐えられる。

だが臣民については、国外が乱れていないとき、君主が恐れるべきなのは秘密の陰謀だけである。憎まれず、軽蔑されず、民衆を満足させておけば、その危険から容易に身を守ることができる。先に詳しく述べたとおり、これを実現することはきわめて重要である。陰謀に対して君主が持ちうる最も有効な防御の一つは、民衆から憎まれず、軽蔑されないことである。君主に対して陰謀を企てる者は、君主を排除すれば民衆が喜ぶと常に期待するからだ。反対に、民衆を怒らせる結果しか期待できないなら、そのような道を選ぶ勇気は持てない。陰謀者の前には無数の困難があるからである。経験の示すところ、陰謀は多かったが、成功したものは少ない。陰謀者は単独では行動できず、不満を抱いていると信じる者以外を仲間にすることもできない。ところが不満を持つ者に胸の内を明かした瞬間、相手には自分の不満を解消する手段を与えることになる。陰謀を告発すれば、あらゆる利益を期待できるからだ。告発による利益は確実で、陰謀の成功は不確かで危険に満ちている。それでも秘密を守る者は、きわめてまれな友人か、君主に対する筋金入りの敵でなければならない。

要約して言えば、陰謀者の側には、彼を脅かす恐怖、嫉妬、処罰の予想しかない。一方、君主の側には、彼を守る君主国の威厳、法律、友人と国家の保護がある。これらすべてに民衆の好意が加われば、陰謀を企てるほど無謀な者が現れることはありえない。通常、陰謀者は計画を実行する前に恐れを抱くが、この場合には犯罪を実行した後も恐れなければならない。民衆まで敵に回すことになり、逃げ道を期待できないからである。

この問題については無数の例を挙げられるが、われわれの父の世代に起きた一例だけで満足しよう。ボローニャの君主であったアンニバーレ・ベンティヴォーリョ殿――現在のアンニバーレの祖父――が、陰謀を企てたカンネスキ家によって殺害されたとき、ベンティヴォーリョ家で生き残ったのは、まだ幼いジョヴァンニ殿だけだった。暗殺の直後、民衆は蜂起してカンネスキ家を皆殺しにした。これは当時、ベンティヴォーリョ家がボローニャで享受していた民衆の好意から生じた。その好意はあまりに強く、アンニバーレの死後、国を統治できる者が現地に誰も残っていなかったにもかかわらず、フィレンツェにベンティヴォーリョ家の者が一人おり、それまで鍛冶屋の息子だと思われていた、との情報を得たボローニャ人は、彼をフィレンツェから呼び寄せ、都市の統治を委ねたほどだった。そしてジョヴァンニ殿が成長して統治を引き継ぐまで、その人物がボローニャを治めた。

以上の理由から、民衆に敬愛されている君主は、陰謀をほとんど問題にしなくてよいと私は考える。しかし民衆が敵対し、憎悪を抱いているなら、君主はあらゆる物事とあらゆる人間を恐れなければならない。秩序ある国家と賢明な君主は、貴族を絶望へ追い込まず、民衆を満足させ、不満を抱かせないよう、細心の注意を払ってきた。これは君主が追求すべき最も重要な目的の一つだからである。

現代で最も秩序正しく統治された王国の一つがフランスであり、そこには王の自由と安全を支える多くの優れた制度がある。その第一が高等法院とその権威である。王国の創設者は、貴族の野心と大胆さを知り、彼らを抑えるには口に轡をはめる必要があると考えた。一方、恐怖に根ざした民衆の貴族への憎悪も知っていたため、民衆を保護しようとした。しかしこれを王個人の任務にはしたくなかった。民衆に味方したことで貴族から受ける非難と、貴族に味方したことで民衆から受ける非難を、王から遠ざけるためである。そこで王の名を傷つけることなく、強者を抑え、弱者を助ける仲裁機関を設けた。これ以上に優れ、慎重な仕組みも、王と王国に大きな安全を与えるものもない。ここから、もう一つの重要な結論を導ける。君主は非難を招く事柄を他者に処理させ、恩恵を与える事柄は自らの手に留めるべきである。さらに君主は貴族を尊重すべきだが、そのため民衆から憎まれてはならない。

ローマ皇帝たちの生涯と死を検討した者のなかには、その多くが私の意見に反する例ではないかと考える者もいるだろう。立派に生き、優れた精神的資質を示したにもかかわらず、帝国を失い、陰謀を企てた臣民に殺された皇帝がいるからである。そこでこれらの反論に答えるため、何人かの皇帝の性格を振り返り、その破滅の原因が、私の述べたものと異ならないことを示したい。同時に、当時の出来事を研究する者にとって、注目に値することだけを取り上げる。

哲人マルクスからマクシミヌスに至るまで、帝位を継承した皇帝をすべて取り上げれば十分であろう。すなわちマルクスとその子コンモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルスとその子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、マクシミヌスである。

まず注目すべきは、他の君主国では貴族の野心と民衆の横暴だけを相手にすればよかったのに対し、ローマ皇帝には第三の困難、すなわち兵士の残虐さと強欲に耐える必要があったことである。これはあまりに困難な問題で、多くの皇帝を破滅させた。兵士と民衆の双方を満足させることが難しかったからである。民衆は平和を好み、野心のない君主を愛した。一方、兵士は大胆で残酷かつ強欲な、好戦的な君主を愛した。しかも兵士は、その性質を君主が民衆に対して存分に発揮することを望んだ。そうすれば給金を倍増させ、自らの強欲さと残酷さを満足させられたからである。このため、生まれや教育によって大きな権威を備えていない皇帝は、常に倒された。とりわけ新たに君主となった者の多くは、二つの相反する気質を満足させる難しさを知ると、民衆を傷つけることをほとんど意に介さず、兵士を満足させる道へ傾いた。この選択は必要だった。君主は誰からも憎まれずにいることはできないため、まず全員から憎まれることを避けるべきであり、それが不可能なら、最大の力を持つ者から憎まれないよう最大限努めなければならないからである。ゆえに経験の浅い皇帝たちは、特別な支持を必要としたため、民衆より兵士に頼りやすかった。これが有利に働くか否かは、皇帝が兵士に対する権威を維持する術を知っているかどうかにかかっていた。

こうした事情により、マルクス、ペルティナクス、アレクサンデルは、いずれも節度ある生活を送り、正義を愛し、残酷さを憎み、人間味と慈愛を備えていたにもかかわらず、マルクスを除いて悲惨な最期を迎えた。マルクスだけは尊敬されながら生き、死んだ。世襲によって帝位を継いだため、兵士にも民衆にも何ら借りがなかったからである。そのうえ尊敬をもたらす多くの美徳を備え、生涯を通じて両者をそれぞれの立場に留め、憎まれることも軽蔑されることもなかった。

しかしペルティナクスは、兵士たちの意向に反して皇帝となった。コンモドゥスのもとで放埒な生活に慣れていた兵士たちは、ペルティナクスが戻そうとした規律ある生活に耐えられなかった。こうして憎悪を招き、さらに老齢ゆえの軽蔑も加わったため、統治の初めに倒された。ここで注目すべきは、善行によっても悪行と同じように憎悪を招く場合がある、ということである。したがって先に述べたとおり、国家を維持しようとする君主は、しばしば悪を行わざるをえない。自らを支えるため必要だと考える集団――民衆、兵士、貴族のいずれであれ――が腐敗しているなら、その気質に従って満足させなければならず、その場合には善行が害をなすからである。

次にアレクサンデルを見よう。彼は非常に善良な人物であり、十四年間の治世中、裁判なしに人を処刑したことが一度もなかった、と称賛されたほどである。それでも軟弱で、母親の言いなりになる人物だと思われたため軽蔑され、軍に陰謀を企てられて殺害された。

反対の性格を持つコンモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスを見れば、全員が残酷で強欲だったことが分かる。兵士を満足させるため、民衆に対してあらゆる非道を行うことをためらわなかった。セウェルスを除き、全員が悲惨な最期を迎えた。だがセウェルスには並外れた力量があったため、民衆を圧迫しながらも兵士の好意を保ち、統治に成功した。その力量によって兵士と民衆の双方から大いに称賛され、民衆は驚きと畏怖のうちに抑えられ、兵士は敬意を払い、満足した。新しい君主としての彼の行動は偉大だったため、先に君主が模倣すべきだと述べた狐と獅子の性質を、彼がいかに巧みに演じたかを簡潔に示したい。

セウェルスは皇帝ユリアヌスの怠惰を知ると、自らが指揮していたスラヴォニアの軍隊に、近衛兵によって殺されたペルティナクスの仇を討つため、ローマへ進軍すべきだと説いた。この口実のもと、帝位を望んでいるようには見せずに軍をローマへ向け、出発したことが知られる前にイタリアへ到達した。ローマに到着すると、元老院は恐怖から彼を皇帝に選び、ユリアヌスを殺した。この後、帝国全土の支配者になろうとするセウェルスには、二つの障害が残った。一つはアジアにあり、アジア軍の指揮官ニゲルが皇帝を称していた。もう一つは西方にあり、アルビヌスも帝位を望んでいた。両者を同時に敵に回すのは危険と考えたセウェルスは、ニゲルを攻撃し、アルビヌスを欺くことにした。アルビヌスには、元老院によって皇帝に選ばれた自分は、その尊厳を彼と分かち合う意思があると書き送り、カエサルの称号を与えた。さらに元老院もアルビヌスを共同統治者にしたと伝え、アルビヌスはそれを真実として受け入れた。だがセウェルスはニゲルを破って殺害し、東方の情勢を安定させるとローマへ戻り、元老院に訴えた。アルビヌスは自分から受けた恩義をわきまえず、裏切って暗殺を企てたため、その忘恩を罰さざるをえない、と。その後セウェルスはフランスまで彼を追い、その統治権と生命を奪った。したがってセウェルスの行動を注意深く検討する者は、彼が最も勇敢な獅子であると同時に、最も狡猾な狐であったことを知るだろう。万人から恐れられ、尊敬されながら、軍隊からは憎まれなかったことも分かる。新参者でありながら帝国をこれほど巧みに維持できたとしても、不思議ではない。最高の名声が、暴力のため民衆の内に生じかねなかった憎悪から、常に彼を守ったからである。

だが息子のアントニヌスも際立った人物であり、民衆から称賛され、兵士に好かれる優れた資質を持っていた。好戦的で、苦労に耐え、繊細な食事やその他の贅沢を軽蔑したため、軍隊から愛された。しかしその凶暴さと残酷さはあまりに甚だしく、前代未聞だった。無数の個別の殺人に加え、ローマの民衆を大量に殺し、アレクサンドリアの住民を皆殺しにした。そのため全世界から憎まれ、周囲の者からも恐れられ、ついには軍中で百人隊長に殺害された。ここで注目すべきは、覚悟を決めた絶望的な勇気によって意図的に行われるこの種の暗殺を、君主が避けることはできない、という点である。死を恐れない者なら、誰でも実行できるからだ。しかしこのような者はきわめてまれなので、君主が過度に恐れる必要はない。ただし、自ら雇い、身辺に置き、国家の任務に就かせている者に、重大な危害を加えないよう注意すべきである。アントニヌスはこの点に注意しなかった。百人隊長の兄弟を侮辱的な形で殺し、本人も毎日のように脅しながら、なお護衛隊のなかに留めていた。これは無謀な行為であり、事実、皇帝を破滅させた。

次にコンモドゥスを見よう。マルクスの息子として帝国を世襲した彼にとって、その維持はきわめて容易だったはずである。父の足跡に従うだけで、民衆と兵士を満足させられたからだ。しかし生まれつき残酷で獣のような性格だったため、民衆に対する強欲を満たせるよう、兵士たちを楽しませ、堕落させることに身を委ねた。一方で自らの尊厳を保たず、しばしば競技場へ降りて剣闘士と戦い、皇帝の威厳にまったくふさわしくない卑しい行為を重ねた。そのため兵士から軽蔑され、一方から憎まれ、他方から侮られ、陰謀によって殺害された。

残るはマクシミヌスの性格である。彼はきわめて好戦的な人物であり、軍隊は先に述べたアレクサンデルの軟弱さに嫌気が差していたため、アレクサンデルを殺し、マクシミヌスを帝位に就けた。しかしその地位を長く保てなかった。二つのことが彼を憎ませ、軽蔑させたからである。一つは、トラキアで羊飼いをしていたことである。この事実は広く知られ、誰もが大きな不名誉と考えたため、彼は軽蔑された。もう一つは、即位後もローマへ赴いて帝都を掌握するのを先延ばしにしたことである。さらにローマや帝国各地で、代官を通じて数々の残虐行為を行い、凶暴極まりないとの評判を得た。そのため全世界が卑しい出自に憤り、野蛮さに恐怖した。まずアフリカが反乱し、次いで元老院とローマの全市民、さらにイタリア全土が彼に対する陰謀へ加わった。そこへ自軍まで加わった。アクイレイアを包囲して攻略に苦しんでいた兵士たちは、その残酷さに嫌気が差し、これほど多くの敵がいるのを見て彼への恐れを失い、ついに彼を殺害した。

ヘリオガバルス、マクリヌス、ユリアヌスについて論じるつもりはない。彼らは徹底して軽蔑され、たちまち消し去られたからである。そこでこの議論を、次のように締めくくりたい。現代の君主は、兵士を過度に満足させなければならないという困難を、はるかに小さい程度でしか抱えていない。兵士に多少配慮する必要はあるが、それはすぐに済む。現代の君主の軍隊には、ローマ帝国の軍隊のように、属州の統治と行政に長く携わってきた古参兵がいないからである。当時は民衆より兵士を満足させることが必要だったが、現在ではトルコ人とスルタンを除くあらゆる君主にとって、兵士より民衆を満足させるほうが重要である。民衆のほうが強大だからだ。

以上の例外であるトルコ人は、常に一万二千の歩兵と一万五千の騎兵を身辺に置き、王国の安全と強さを彼らに依存している。したがって民衆への配慮をすべて脇へ置き、この軍隊の好意を保つ必要がある。スルタンの王国も同様である。全面的に兵士の手中にあるため、民衆を顧みず、兵士の好意を保たなければならない。ただしスルタンの国家は、他のあらゆる君主国と異なることに注意すべきである。それはキリスト教世界の教皇制に似ており、世襲君主国とも、新たに形成された君主国とも呼べない。前君主の息子が後継者になるのではなく、選出権を持つ者によって、その地位に選ばれた者が継承し、息子たちは単なる貴族に留まるからである。これは古くからの慣習なので、新しい君主国とは呼べない。新しい君主国に見られる困難が存在しないからだ。君主は新しくても、国家の制度は古く、世襲君主であるかのように彼を迎え入れる形に整えられている。

本題へ戻ろう。以上を検討する者は、先に挙げた皇帝たちを破滅させたのが、憎悪か軽蔑のいずれかだったと認めるだろう。また一部の皇帝はある道を選び、別の者たちは反対の道を選んだにもかかわらず、どちらの道でも一人だけが幸福な結末を迎え、残りは不幸な最期を遂げた理由も理解できる。新しい君主であったペルティナクスとアレクサンデルが、世襲君主マルクスを模倣するのは無益で危険だった。同じように、カラカラ、コンモドゥス、マクシミヌスがセウェルスを模倣するのも、全面的な破滅を招いた。彼の足跡をたどるだけの力量がなかったからである。したがって、新しく君主国を得た者はマルクスの行動を模倣することもできず、セウェルスの行動をすべて踏襲する必要もない。セウェルスからは国家の基礎を築くために必要な部分を、マルクスからは、すでに安定し堅固となった国家を維持するのにふさわしく、栄誉ある部分を採るべきである。

第二十章 要塞その他、君主がしばしば用いる方策は有益か、有害か

  1. ある君主は、国家を安全に維持するため臣民の武装を解除し、

別の君主は支配下の都市を派閥抗争によって分裂させた。またある者は自分に対する敵意を育て、ある者は統治の初めに疑っていた者を味方につけようと努めた。要塞を築いた者もいれば、それを取り壊し、破壊した者もいる。判断すべき国家の個別事情を知らなければ、これらすべてについて最終的な判断を下すことはできないが、問題そのものが許すかぎり包括的に論じたい。

  1. 臣民の武装を解除した新しい君主は、かつて一人もいない。それどころか、

臣民が武装していなければ、常に武器を与えてきた。臣民を武装させれば、その武器は君主のものとなり、疑っていた者は忠実になり、もともと忠実だった者は忠誠を保ち、臣民は君主の支持者となるからである。すべての臣民を武装させることはできないとしても、武器を与えた者に恩恵を施せば、残りの者はいっそう自由に扱える。臣民もこの処遇の違いをよく理解する。武装を許された者は君主に恩義を感じ、許されなかった者も、危険と任務をより多く負う者が、より多くの報酬を得るのは当然だと考え、君主を許す。しかし臣民の武装を解除すれば、臆病または不忠を理由に信用していないと示すことになり、ただちに彼らを怒らせる。そしてどちらの見方も、君主への憎悪を生む。君主自身は武装せずにはいられないため、結局は先に性質を示した傭兵へ頼ることになる。たとえ傭兵が優秀でも、強力な敵と信用できない臣民の双方から君主を守るには不十分である。したがって先に述べたとおり、新しい君主国の新しい君主は、常に武器を配ってきた。歴史にはその例が満ちている。しかし君主が新しい国を獲得し、それを旧来の国家へ属州として加える場合は、獲得に協力した者を除き、その国の住民から武器を取り上げる必要がある。協力者についても、時と機会を見て次第に軟弱にし、軍事能力を失わせるべきである。そして国家の武装者全員が、旧領で君主の近くに暮らしていた、自らの兵士だけとなるよう事を運ばなければならない。

  1. われわれの祖先や、賢者と見なされた人々は、かつて

ピストイアは派閥抗争によって、ピサは要塞によって維持すべきだと言っていた。そして支配を容易にするため、属領のいくつかの都市で争いを助長した。この方策は、イタリアにある種の勢力均衡があった時代には適切だったかもしれない。しかし現代の原則として受け入れられるとは思わない。派閥抗争が役立つことなど決してないからである。それどころか、分裂した都市に敵が迫れば、ただちに失われることは確実である。弱い側の派閥が常に外敵を援助し、もう一方はこれに抵抗できないからだ。ヴェネツィア人は、おそらく以上の理由から、支配下の都市でゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の派閥を育てた。流血に至ることは許さなかったものの、市民が争いに心を奪われ、団結してヴェネツィア人に反抗しないよう、対立を煽ったのである。しかし、われわれが目撃したように、結果は期待どおりにならなかった。ヴァイラで敗北すると、一方の派閥がただちに勢いづき、国家を奪ったからである。したがって、このような方法は君主の弱さを示す。強力な君主国では、そのような派閥は決して許されない。臣民を容易に扱うためのこの種の方法は、平時にしか役立たず、戦争となれば誤りであることが露呈する。

  1. 君主が自らを取り巻く困難や障害を克服することで偉大になるのは、

疑いようがない。そのため運命は、とりわけ世襲君主よりも名声を得る必要のある新しい君主を偉大にしようとするとき、敵を生じさせ、君主に対する企てを起こさせる。君主がそれを克服する機会を得て、敵の立てた梯子を上るように、さらに高い地位へ達するためである。この理由から、多くの者は、賢明な君主は機会があれば、狡猾な手段で自らに対する敵意をいくらか育てるべきだと考える。それを打ち砕くことで、名声をさらに高められるからである。

  1. 君主、とりわけ新しい君主は、統治の初めに信用していた者より、

初めに疑っていた者から、より大きな忠誠と援助を得ることがある。シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチは、信用していた者よりも、疑っていた者を用いて国を統治した。しかしこの問題は個々の事情によって大きく異なるため、一般論として語ることはできない。私が言えるのは次のことだけである。君主国の成立当初に敵対していた者でも、自らの立場を保つため援助を必要とする種類の人間なら、きわめて容易に味方へ引き入れられる。彼らは、君主が抱いた悪い印象を行動によって消す必要があると知っているため、忠実に仕えるよう強く拘束される。こうして君主は、安心しきって仕え、国務を怠る者より、彼らから多くの利益を引き出せる。またこの問題との関連で、秘密裏の好意によって新しい国を獲得した君主に、ぜひ警告しておきたい。自分を支持した者が、どのような理由で支持したのかをよく検討しなければならない。その理由が君主への自然な愛情ではなく、以前の政府に対する不満だけなら、彼らの好意を保つには大変な苦労と困難が伴う。彼らを満足させることは不可能だからである。古今の事例を検討してその理由を十分に考えれば、以前の政府に満足していたため新しい君主の敵となった者を味方にするほうが、以前の政府に不満を抱き、新しい君主を支持して国家の奪取を促した者を味方に保つより容易だと分かる。

  1. 君主は国家をより安全に保つため、自らに対して企てを抱く者を抑える手綱と轡となり、

最初の攻撃から逃れる避難所ともなる要塞を築くのを慣例としてきた。この制度は古くから用いられてきたため、私は評価する。それにもかかわらず、現代ではニッコロ・ヴィテッリ殿がチッタ・ディ・カステッロの二つの要塞を取り壊し、それによって国を維持しようとした。ウルビーノ公グイド・ウバルドは、チェーザレ・ボルジアに追放された領国へ戻ると、その地方の全要塞を土台から破壊し、要塞がなければ、かえって国を失いにくくなると考えた。ボローニャへ帰還したベンティヴォーリョ家も、同様の決断を下した。したがって要塞が有益か否かは、状況によって異なる。ある面で利益を与えても、別の面では害を与える。この問題は次のように考えられる。外国人より民衆を恐れる理由の大きい君主は要塞を築くべきだが、民衆より外国人を恐れる理由の大きい君主は築くべきでない。フランチェスコ・スフォルツァが築いたミラノ城は、国内の他のいかなる混乱よりも大きな厄介事をスフォルツァ家にもたらしてきたし、今後ももたらすだろう。ゆえに最良の要塞とは、民衆から憎まれないことである。要塞を持っていても、民衆に憎まれれば救われない。君主に対して武器を取った民衆を援助する外国人が、必ず現れるからだ。現代において要塞が君主に役立った例は、夫ジローラモ伯を殺されたフォルリ伯爵夫人の場合を除いて、ほとんど見られない。要塞があったため民衆の攻撃に抵抗し、ミラノからの援軍を待ち、国を取り戻すことができた。当時は情勢上、外国人が民衆を援助できなかったのである。しかし後にチェーザレ・ボルジアが攻撃し、伯爵夫人を敵視する民衆が外国人と結んだとき、要塞はほとんど役に立たなかった。したがって、そのときも、それ以前も、要塞を持つより、民衆から憎まれないほうが安全だっただろう。以上を考慮すれば、私は要塞を築く者も、築かない者も称賛する。ただし要塞を頼りとし、民衆から憎まれることを軽視する者は非難する。

第二十一章 名声を得るために君主はいかに振る舞うべきか

偉大な事業と際立った模範ほど、君主の評価を高めるものはない。われわれの時代には、現在のスペイン王フェルディナンド・オブ・アラゴンがいる。彼はほとんど新しい君主と呼べる。取るに足りない王から、名声と栄光によってキリスト教世界第一の王へ上ったからである。その行動を検討すれば、すべてが偉大であり、そのうちいくつかは並外れていることが分かる。治世の初めにグラナダを攻撃し、この事業を支配権の土台とした。彼はまず静かに、妨害を受ける恐れなくこれを実行した。カスティーリャの諸侯の心を戦争へ向けさせ、国内の改革を予想させなかったからである。そのため諸侯は、王が戦争を通じて自分たちに対する権力と権威を獲得していることに気づかなかった。王は教会と民衆の資金によって軍隊を維持し、その長い戦争を通じて、後に彼を際立たせた軍事能力の土台を築くことができた。さらに大事業を行うため、常に宗教を口実とし、敬虔な残酷さをもってムーア人を追放し、王国から一掃することに身を捧げた。これ以上に見事で、珍しい模範はない。同じ覆いのもとでアフリカを攻撃し、イタリアへ進出し、最後にはフランスを攻撃した。こうしてその事業と構想は常に偉大で、民衆の心を緊張と驚嘆のうちに保ち、結果への関心で満たした。しかも行動は一つから次の一つが生まれる形で続いたため、人々には腰を据えて王に対抗する時間が一度も与えられなかった。

さらに君主が国内問題で異例の模範を示すことも、大きな助けとなる。ミラノのベルナボ殿について伝えられる事例がそれである。民間人の誰かが、善悪を問わず並外れた行為をすれば、その機会を捉え、広く語り草になるような方法で褒賞または処罰を与えた。君主は何より、あらゆる行動を通じて、偉大で際立った人物という評判を得るよう常に努めるべきである。

君主はまた、真の友か、徹底した敵であるときに尊敬される。すなわち一切の留保なく、一方に味方して他方に対抗することを宣言するのである。この道は常に、中立を守るより有利である。強大な二つの隣国が衝突する場合、一方が勝てば、その勝者を恐れなければならないか、恐れる必要がないかのどちらかである。いずれの場合でも、立場を明らかにし、全力で戦うほうが有利である。第一の場合に立場を表明しなければ、敗者を喜ばせ満足させながら、必ず勝者の餌食となる。そして自らを弁護する理由も、守り助けてくれるものもない。勝者は試練のときに援助しなかった疑わしい友人を望まず、敗者も、進んで剣を手にして運命をともにしなかった者を迎え入れないからである。

アンティオコスは、ローマ人を追い払うためアイートーリア人に招かれ、ギリシャへ入った。彼はローマ人の友好国であったアカイア人に使節を送り、中立を守るよう勧めた。一方、ローマ人は武器を取るよう促した。この問題がアカイア人の評議会で議論され、アンティオコスの使節が中立を求めた。これにローマの使節は答えた。「われわれの戦争に関わらないほうが、あなたがたの国にとって善く有利であるとの主張ほど、誤ったものはない。関わらなければ、好意も尊重も受けられず、勝者の褒賞として残されるだけだからだ。」

したがって、友でない者は常に中立を要求し、友である者は武器を取って立場を明らかにするよう求める。優柔不断な君主は目先の危険を避けるため、たいてい中立の道を選び、たいてい破滅する。しかし君主が勇敢に一方へ味方することを宣言し、その同盟相手が勝利したなら、勝者が強大で、君主を意のままにできるとしても、勝者は君主に恩義を負い、両者の間には友情の絆が築かれる。人間は、恩人を圧迫して忘恩の記念碑となるほど恥知らずではない。そもそも勝利は、勝者が何の配慮も示さなくてよいほど完全なものではなく、とりわけ正義への配慮は必要である。一方、同盟相手が敗れても、相手は君主を保護し、力のあるかぎり助けてくれる。そして君主は、再び上向くかもしれない運命をともにする仲間となる。

第二の場合、すなわち戦う両者のどちらが勝っても不安を抱く必要がない場合には、同盟することはいっそう賢明である。一方を、もう一方の助けによって滅ぼせるからだ。援助する側が賢明なら、本来は相手を救ったはずである。そして君主の援助があれば必ず勝つため、勝利後は君主の意向に従わざるをえなくなる。ここで注意すべきは、必要に迫られないかぎり、他者を攻撃するため自分より強大な者と同盟してはならない、ということである。相手が勝てば君主はその意のままとなり、君主は可能なかぎり、誰かの意のままになることを避けるべきだからだ。ヴェネツィア人はミラノ公に対抗してフランスと同盟し、この同盟が破滅を招いたが、それは避けることができた。しかし教皇とスペインがロンバルディアを攻撃するため軍を送ったときのフィレンツェ人のように、同盟を避けられない場合には、以上の理由から、君主はいずれか一方へ味方すべきである。

いかなる政府も、完全に安全な道を選べると思ってはならない。むしろ、きわめて不確かな道を選ばざるをえないと覚悟すべきである。世の常として、一つの災いを避けようとすれば、必ず別の災いに陥るからだ。慎重さとは、災いの性質を見分け、より小さな悪を選ぶ術にある。

君主はまた、能力ある者の庇護者として振る舞い、あらゆる技芸に秀でた者を顕彰すべきである。同時に、市民が商業、農業、その他あらゆる職業へ安心して励めるよう奨励しなければならない。財産を没収されるのを恐れて土地の改良をためらう者や、税を恐れて商売を始めるのをためらう者が出ないようにするのである。それどころか、こうした事業を望む者や、何らかの形で都市または国家へ栄誉をもたらそうとする者に、褒賞を与えるべきである。

さらに一年の適切な時期に、祭典や見世物によって民衆を楽しませるべきである。どの都市も同業組合や団体に分かれているため、君主はこうした組織を尊重し、ときにはその集まりに加わり、礼儀と気前のよさの模範を示すべきである。ただし君主の地位にふさわしい威厳は、常に保たなければならない。何事においても、それを損なうことに同意してはならない。

第二十二章 君主の秘書官について

側近の選択は君主にとって決して小さな問題ではなく、彼らが優秀か否かは、君主の判断力によって決まる。君主とその知性について人が最初に抱く評価は、周囲にいる者を見て形成される。彼らが有能で忠実なら、君主も常に賢明だと評価される。有能な者を見分け、忠実に保つ術を心得ていたからである。しかし側近がそうでなければ、君主を高く評価することはできない。君主が犯した最初の誤りが、側近の選択にあったからだ。

シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチの側近アントニオ・ダ・ヴェナフロ殿を知る者で、ヴェナフロを側近に選んだパンドルフォを、きわめて聡明な人物だと考えない者はいなかった。知性には三種類ある。一つは自力で理解する知性。もう一つは、他者が理解したことを正しく評価する知性。そして第三は、自力でも理解できず、他者から示されても理解できない知性である。第一は最も優れ、第二は優秀であり、第三は無益である。したがってパンドルフォが第一の部類でなかったとしても、第二の部類だったことは間違いない。自ら発案する力はなくても、言葉と行動に表れた善悪を判断できるなら、側近の善い行いと悪い行いを見分け、前者を称賛し、後者を正すことができる。そうなれば側近は君主を欺けると期待できず、誠実であり続ける。

君主が側近を評価するには、決して誤らない一つの試金石がある。側近が君主の利益より自分の利益を重んじ、あらゆる事柄のなかに自分の利得を求めていると分かったなら、その者が優れた側近になることはなく、決して信用してはならない。他者の国家を委ねられた者は、自分自身のことではなく、常に君主のことを考え、君主と関係のない事柄には決して心を向けるべきではないからである。

一方、側近を忠実に保つため、君主もその人物をよく見極め、尊重し、富ませ、親切を施し、栄誉と重責を分かち合うべきである。同時に、君主なしには立ちえないと理解させなければならない。多くの栄誉を受けたため、それ以上を望まず、多くの富を得たため、それ以上を求めず、多くの重責を担うため、政変を恐れるようにするのである。側近と、側近に対する君主がこのような関係にあれば、互いを信頼できる。しかしそうでなければ、結末は常に、どちらか一方にとって破滅的なものとなる。

第二十三章 追従者をいかに避けるべきか

この問題の重要な一部を省くつもりはない。それは、君主がよほど慎重で、人を見る目を持たないかぎり、容易には身を守れない危険だからである。すなわち、宮廷に満ちている追従者の問題である。人間は自分のこととなると自惚れが強く、ある意味で自分自身に欺かれているため、この害悪から身を守るのが難しい。しかも身を守ろうとすれば、今度は軽蔑を招く危険がある。追従者から自らを守る方法は、真実を告げられても不快に思わないと、人々に理解させる以外にない。しかし誰もが自由に真実を告げられるようにすれば、君主への敬意が失われる。

したがって賢明な君主は、第三の道を選ぶべきである。すなわち国内から賢者を選び、君主が尋ねた事柄についてだけ、彼らだけに真実を語る自由を与え、それ以外のことについては許さない。しかし君主はあらゆることを彼らに問い、その意見を聞いたうえで、自ら結論を下すべきである。これらの顧問には個別にも全体にも、率直に語れば語るほど高く評価されると、それぞれが理解するような態度を取らなければならない。彼ら以外の者には耳を貸さず、決めたことを実行し、その決意を堅く守るべきである。そうしない者は、追従者によって倒されるか、さまざまな意見に振り回されて方針をたびたび変え、軽蔑されることになる。

この問題について、現代の例を一つ挙げたい。現在の皇帝マクシミリアンの事務官である修道士ルカは、陛下についてこう述べた。皇帝は誰にも相談しないが、何一つ自分の思いどおりにはならない、と。これは皇帝が、先に述べた方法と正反対の習慣に従っているためである。皇帝は秘密主義で、自らの構想を誰にも伝えず、意見も求めない。しかし構想を実行に移せば、それは明らかになり、周囲の者に知られる。すると彼らはただちに反対し、皇帝は人の意見に左右されやすいため、方針を変えさせられる。このため、ある日に実行したことを翌日には取り消し、皇帝が何を望み、何をしようとしているのか、誰にも理解できない。その決意を頼りにすることもできない。

したがって君主は常に助言を求めるべきだが、それは自分が望むときだけであり、他者が望むときであってはならない。自ら尋ねないかぎり、誰も助言を申し出ないようにさせるべきである。しかし君主自身は、絶えず問いを発し、尋ねた事柄については辛抱強く答えを聞かなければならない。また何らかの理由で真実を告げなかった者がいると知ったなら、怒りをはっきり示すべきである。

賢明に見える君主が実際には自らの能力によって賢いのではなく、周囲に優れた助言者がいるためにそう見えるだけだ、と考える者もいる。しかしそう考える者は間違いなく欺かれている。決して外れない原則があるからだ。自ら賢明でない君主が、優れた助言を受け入れることは決してない。ただし偶然、きわめて賢明な一人の人物へ国務を全面的に委ねた場合は別である。その場合には適切に統治されるかもしれないが、長くは続かない。その統治者がほどなく君主から国を奪うからである。

また経験のない君主が複数の者に助言を求めても、一致した助言を得ることはなく、それらを統一する術も分からない。顧問はそれぞれ自分の利益を考え、君主には彼らを抑えることも、その意図を見抜くこともできない。そして別の種類の人間を見つけることはできない。人は強制によって誠実に保たれないかぎり、常に不実となるからである。したがって、優れた助言はどこから来るにせよ、君主の知恵から生まれるのであって、優れた助言から君主の知恵が生まれるのではない、と結論しなければならない。

第二十四章 なぜイタリアの君主たちは国を失ったのか

これまで述べてきた方策を注意深く実行すれば、新しい君主であっても、古くからその地位にあった者以上に確固たる基盤を築き、たちまち国家を安定させることができる。新君主の行動は世襲君主の行動よりも厳しく注視されるが、それが有能なものと認められれば、古い血統よりもはるかに強く人々を惹きつけ、固く結びつけるからだ。人は過去より現在に心を動かされる。現在が良ければ、それを享受し、それ以上を求めない。そして君主がほかの面で民を裏切らないかぎり、民もまた全力で君主を守る。したがって、新たな君主国を築き、良き法、良き軍備、良き同盟者、良き模範によってそれを飾り、強固にした者には、二重の栄誉がある。反対に、君主として生まれながら、知恵を欠いたために国を失う者には、二重の恥辱がある。

われわれの時代にイタリアで国を失った君主たち、たとえばナポリ王やミラノ公などを考察すれば、まず彼らには、すでに詳しく論じた原因から生じる軍備上の共通した欠陥が見いだされる。次に、ある者は民衆を敵に回し、また民衆を味方につけていた者は、貴族を抑える術を知らなかった。この二つの欠陥さえなければ、野戦軍を維持できるだけの力を持つ国家が失われることはない。

マケドニアのフィリッポス――アレクサンドロス大王の父ではなく、ティトゥス・クィンクティウスに敗れたフィリッポス――は、自国を攻めたローマとギリシャの大国ぶりに比べれば、わずかな領土しか持たなかった。それでも、民衆を惹きつけ、貴族を抑える術を心得た武人であったため、長年にわたって敵との戦争を持ちこたえた。最後にはいくつかの都市の支配権を失ったものの、王国そのものは守り抜いたのである。

したがって、わが国の君主たちは、長年保有してきた君主国を失ったからといって、運命を責めてはならない。責めるべきは、むしろ自らの怠惰である。平穏な時代には、事態が変化するなどとは思いもしなかったからだ――嵐に備えて凪のうちに手を打たないのは、人間に共通する欠点である。そして悪い時代が訪れると、身を守ることではなく逃げることを考え、征服者の横暴に嫌気が差した民衆が自分たちを呼び戻してくれるものと期待した。この策も、ほかに手段がないときには役立つかもしれない。しかし、その期待ゆえにほかのあらゆる方策を怠るのは、きわめて愚かである。あとで誰かが助け起こしてくれると信じて、わざわざ転びたいと願う者などいないからだ。そもそも、そのような救済は訪れないかもしれない。たとえ訪れても、それによって安全が得られるわけではない。自分自身に依存しない救済は、何の役にも立たないからである。信頼でき、確実で、永続するのは、自分自身と自らの力量に基づくものだけなのだ。

第二十五章 運命は人間の営みにどれほど力を及ぼすのか、またそれにいかに抗うべきか

世の中の出来事は運命と神によって支配されており、人間は知恵を尽くしてもその流れを変えられず、手の施しようもない、と考えてきた者、今なおそう考えている者が多いことは、私も承知している。そのため彼らは、物事にあくせく骨を折る必要はなく、成り行きに任せるべきだと説く。人間のあらゆる予想を超える大変動が、日々目の前で起こり、今なお起こり続けているため、われわれの時代にはこの考えがいっそう信じられるようになった。私自身も、このことを思い巡らすと、時に彼らの意見へ幾分傾くことがある。とはいえ、人間の自由意志を消し去らないためにも、私はこう考える。運命はわれわれの行動の半分を裁定するが、残る半分、あるいはそれよりやや少ない部分については、なおわれわれ自身に委ねているのだ、と。

私は運命を、荒れ狂う大河になぞらえたい。ひとたび氾濫すれば平野を水浸しにし、樹木や建物を押し流し、土地をこちらからあちらへ運び去る。すべてがその前から逃げ出し、誰もその猛威に抗えず、ことごとく屈服する。しかし、川がそのような性質を持つからといって、晴天のうちに人間が堤防や防壁を設け、次に増水したときには水を水路へ流し、その力がそれほど奔放にも危険にもならぬよう備えることができないわけではない。運命も同じである。運命は、それに抗う力量が準備されていない場所で威力を現し、堤防も防壁も築かれていないと知る場所へ、その猛威を向ける。

こうした変動の舞台であり、その発端ともなったイタリアを見れば、そこが堤防も防備もない、むき出しの土地であることがわかる。もしドイツ、スペイン、フランスのように、ふさわしい力量によって守られていたなら、この侵入がこれほどの大変動を引き起こすことはなかったか、あるいは侵入そのものが起こらなかっただろう。運命への抵抗一般については、これだけ述べれば十分だと思う。

さらに個々の事例に絞って言えば、性向や性格を何一つ変えなかったにもかかわらず、今日は幸福だった君主が、明日には破滅していることがある。その第一の原因は、すでに詳しく論じたとおり、運命だけに依存する君主は、運命が変われば滅びるということだ。また私は、行動を時勢に合わせる者は成功し、行動が時勢に合わない者は失敗すると考える。人は誰もが目指す目的、すなわち栄光と富へ向かうにあたり、さまざまな方法を取る。慎重に進む者もいれば性急に進む者もいる。力に訴える者もいれば技巧を用いる者もいる。忍耐による者もいれば、その反対による者もいる。そして、それぞれが異なる道を通って目的に達する。また、二人の慎重な者のうち、一人は目的を遂げ、もう一人は失敗することもある。同様に、慎重な者と果敢な者という異なるやり方の二人が、ともに成功することもある。これはすべて、その方法が時勢の性質に合っているか否かによって生じる。だから、異なるやり方をする二人が同じ結果を生み、同じやり方をする二人の一方が目的を遂げ、他方が失敗するのである。

境遇の変化もここから生じる。慎重さと忍耐をもって行動する者に、時勢と情勢がうまく合致し、その統治が成功すれば、その者は幸運に恵まれる。しかし時勢と情勢が変化したとき、行動の仕方を変えなければ破滅する。ところが、変化に応じて自らを適応させられるほど周到な人間は、めったにいない。生来の性向に逆らえないうえ、ある一つのやり方でつねに成功してきた者は、それを捨てるべきだと納得できないからである。そのため慎重な人間は、冒険に踏み切るべき時が来ても、その方法を知らず、破滅する。時勢に応じて行動を変えていたなら、運命も変わらなかったはずなのだ。

教皇ユリウス二世は、何事にも激しい勢いで取り組み、そのやり方に時勢と情勢が実によく合っていたため、つねに成功した。ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオがまだ存命だったころの、最初のボローニャ遠征を考えてみよ。ヴェネツィア人は賛成せず、スペイン王も同意せず、フランス王とはなお協議中だった。それでも教皇は、持ち前の大胆さと気迫をもって、自ら遠征を開始した。この行動により、スペインとヴェネツィアは態度を決めかね、何もできなくなった。ヴェネツィアは恐怖のため、スペインはナポリ王国を回復したいとの思惑からである。一方、フランス王をも引きずり込んだ。教皇の動きを目にしたフランス王は、ヴェネツィアを屈服させるため教皇を味方にしたいと望み、協力を拒めないと悟ったからだ。こうしてユリウスは、その果敢な行動によって、ありきたりな人間的知恵しか持たないほかの教皇には成し遂げられないことを成し遂げた。もしほかの教皇のように、計画を整え、すべてを確定してからローマを発とうと待っていたなら、決して成功しなかっただろう。フランス王は千もの口実を設け、ほかの者たちは千もの懸念を持ち出したに違いない。

彼のほかの行動については触れない。どれも同じようなもので、すべて成功したからだ。寿命が短かったため、逆の結果を経験せずに済んだのである。しかし慎重に行動する必要のある情勢が訪れていたなら、破滅しただろう。生来の性向が命じるやり方から、決して外れることができなかったからである。

ゆえに私はこう結論する。運命は移ろいやすく、人間は自らのやり方に固執する。両者が一致しているあいだ、人は成功するが、食い違えば失敗する。私としては、慎重であるより果敢であるほうがよいと考える。運命は女であり、これを従わせようとするなら、打ち据え、手荒く扱う必要があるからだ。そして運命は、冷静に事を運ぶ者より、果敢な者にこそ征服されることがわかる。ゆえに運命は、女の常として若者を好む。若者は慎重さに乏しく、より荒々しく、より大胆に運命を支配するからである。

第二十六章 イタリアを蛮族から解放せよとの勧告

以上の論考で扱った問題をつぶさに検討し、今の時代が新たな君主を迎えるのに適しているか、また賢明で力量ある人物が、自らには名誉を、この国の民には利益をもたらす新秩序を導入する機会となる要素が存在するかを思案してみると、今ほど新君主に有利な条件が重なった時代は、かつてなかったように思われる。

すでに述べたように、モーセの力量を明らかにするにはイスラエルの民が奴隷となる必要があり、キュロスの偉大な魂を示すにはペルシア人がメディア人に圧迫される必要があり、テセウスの能力を際立たせるにはアテネ人が離散する必要があった。だとすれば今、イタリア人の精神に宿る力量を示すためには、イタリアが今日のような窮境にまで追い込まれる必要があったのだ。ヘブライ人以上に隷属し、ペルシア人以上に圧迫され、アテネ人以上に離散し、頭なく、秩序なく、打ちのめされ、略奪され、引き裂かれ、蹂躙され、あらゆる荒廃に耐えねばならなかったのである。

近ごろ、ある人物に一筋の火花が見え、われわれを救うため神に選ばれた者ではないかと思わせたこともあった。しかしその後、事業の絶頂に達したところで、運命に見放されたことが明らかになった。こうして命を失ったも同然のイタリアは、今なお、傷を癒やし、ロンバルディアでの掠奪と破壊、王国とトスカーナでの搾取と重税に終止符を打ち、長年膿み続けてきた傷口を清めてくれる者を待っている。イタリアが、こうした不正と蛮族の横暴から解放する者を遣わしてほしいと神に懇願している姿が見える。また、ただ誰かが旗を掲げさえすれば、喜んでその旗に従う用意ができていることもわかる。

そして現在、イタリアが閣下の名門以上に希望を託せる存在は、ほかに見当たらない。力量と幸運を備え、神と、今やその長となった教会の恩寵を受ける閣下の家こそ、この救済の先頭に立つことができる。私が名を挙げた人々の行動と生涯を思い起こすなら、これは困難ではない。彼らが偉大で驚嘆すべき人物だったとはいえ、やはり人間であり、その誰にも、現在以上の機会が与えられていたわけではない。彼らの事業はこれより正当でも容易でもなく、神もまた、閣下に対する以上に彼らの味方だったわけではない。

われわれの側には大いなる正義がある。必要に迫られた戦争こそ正しい戦争であり、武器のほかに望みがないとき、その武器は神聖だからだ。ここにはきわめて強い意志がある。そして意志が強いところでは、私が注意を向けた先人たちを模範としさえすれば、困難が大きいはずはない。しかも、神の道が比類なく驚くべき仕方で示されている。海は分かれ、雲が道を導き、岩から水が湧き、天からマナが降った。あらゆるものが閣下の偉大さに力を添えてきた。あとは閣下自身が成し遂げねばならない。神はすべてを行おうとはなさらない。われわれから自由意志を奪い、われわれに属する栄光の分け前を取り上げぬためである。

先に名を挙げたイタリア人の誰一人として、閣下の名門に期待されていることをすべて成し遂げられなかったとしても、不思議ではない。また、イタリアでこれほど多くの政変と戦役が続くなか、軍事的力量がつねに尽き果てたかのように見えたとしても、それは旧来の秩序が悪く、われわれの誰一人として新たな秩序を見いだす術を知らなかったためである。新たに身を起こした者が、新しい法と制度を打ち立てることほど、名誉をもたらすものはない。それらが確かな基礎と威厳を備えていれば、その人物は畏敬と賞賛を集める。そしてイタリアには、あらゆる形でそれらを実行する機会が不足していない。

ここでは四肢に大いなる力がありながら、頭にそれが欠けている。決闘や一騎打ちをよく見れば、イタリア人が体力、敏捷さ、技量において、どれほど優れているかがわかる。しかし軍隊となれば、他国とは比較にならないほど劣る。その原因は、ひとえに指揮官の無能さにある。有能な者は服従せず、誰もが自分こそ心得ていると思い込んでいるからだ。力量か幸運のいずれかによって他を圧倒し、人々を服従させられるほど傑出した人物が、これまで一人も現れなかった。そのため長いあいだ、そして過去二十年間にわたる数多くの戦いで、軍隊がすべてイタリア人から成っている場合、つねに不名誉な結果に終わった。その最初の証人がターロ川であり、続いてアレッサンドリア、カプア、ジェノヴァ、ヴァイラ、ボローニャ、メストレである。

したがって、閣下の名門が祖国を救ったかの傑人たちに倣おうとするなら、何よりもまず、あらゆる事業の真の基礎として、自前の軍隊を備える必要がある。これ以上に忠実で、真正で、優れた兵士は存在しないからだ。一人ひとりでも優秀だが、自らの君主に率いられ、君主から名誉を与えられ、その費用で養われるなら、一つにまとまったとき、さらに優れた軍隊となる。ゆえに、イタリア人の力量によって外国人から国を守れるよう、このような軍備を整えねばならない。

スイス歩兵とスペイン歩兵は、きわめて恐るべきものと思われている。しかし両者にはそれぞれ欠陥があり、第三の軍制をもってすれば、対抗できるばかりか、打ち破ることさえ期待できる。スペイン兵は騎兵に耐えられず、スイス兵は歩兵と接近戦を交えるとき、その歩兵を恐れるからだ。そのため、これまで見られ、今後も見られるであろうように、スペイン兵はフランス騎兵に抵抗できず、スイス兵はスペイン歩兵に打ち破られる。後者については完全な証明がなされたとはいえないが、ラヴェンナの戦いでは、その一端が示された。スペイン歩兵が、スイス兵と同じ戦法を用いるドイツ部隊と対峙したとき、スペイン兵は身のこなしの軽さと盾を利用してドイツ兵の長槍の下へ潜り込み、危険を避けながら攻撃できた。一方のドイツ兵は、なすすべもなく立ち尽くした。騎兵が突入してこなければ、ドイツ兵は全滅していただろう。したがって、この二種類の歩兵の欠陥を知れば、騎兵に耐え、歩兵を恐れない新たな歩兵を創り出すことができる。それにはまったく新しい武器の体系を創る必要はなく、旧来の体系に変化を加えればよい。この種の改善こそ、新君主に名声と権力をもたらすのである。

ゆえに、イタリアがついに解放者の出現を目にするこの機会を、逃してはならない。外国人の蹂躙に苦しんできたすべての地方で、その者がどれほどの愛情をもって迎えられるかは、言葉では言い表せない。どれほど復讐に渇き、どれほど揺るぎない信頼を寄せ、どれほど献身し、どれほど涙を流すことか。いったい、どの扉が閉ざされよう。誰が服従を拒もう。どんな嫉妬が妨げよう。いかなるイタリア人が敬意を示すのを拒もう。この蛮族の支配は、われわれすべてにとって鼻持ちならない。ならば閣下の名門は、あらゆる正しい事業が始められるときの勇気と希望をもって、この使命を引き受けられよ。閣下の旗のもとで祖国が気高くよみがえり、閣下の庇護のもと、ペトラルカの次の言葉が真実となるように。

猛威に抗い、徳は

  武器を取り、戦いはたちまち終わる。

いにしえの勇気は

  イタリア人の胸に、いまだ死なず。

猛威に抗い、徳は戦いへ進み、

  戦場にて、敵をたちまち敗走させる。

古きローマの勇気はいまだ死なず、

  イタリア人の胸から消えてはいない。

エドワード・デイカー、一六四〇年。

ヴァレンティーノ公がヴィテロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、パゴロ卿、グラヴィーナ公オルシーニを殺害した際に用いた方法について

ニッコロ・マキアヴェッリ著

ヴァレンティーノ公は、アレッツォおよびヴァル・ディ・キアーナの他の町々の反乱をめぐり、フィレンツェ人が自分に浴びせた中傷についてフランス王に釈明するため赴いていたロンバルディアから戻り、イーモラに到着した。そこから軍を率い、ボローニャの僭主ジョヴァンニ・ベンティヴォーリオに対する戦役を開始するつもりだった。ボローニャを支配下に置き、ロマーニャ公国の首府とする意図があったのである。

このことを知ったヴィテッリ家とオルシーニ家、およびその追随者たちは、公が強大になりすぎると考えた。ボローニャを手中に収めれば、次にはイタリアの覇者となるため自分たちを滅ぼそうとするのではないか、と恐れたのである。そこでペルージャ地方のマジョーネに会合が招集され、オルシーニ家の枢機卿、パゴロ、グラヴィーナ公、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ペルージャの僭主ジャンパゴロ・バリオーニ、そしてシエナ君主パンドルフォ・ペトルッチの使者メッセル・アントニオ・ダ・ヴェナフロが集まった。ここで公の力と気迫、ならびに、その野心を抑える必要が論じられた。放置すれば、ほかの者たちも破滅の危険にさらされるからである。彼らはベンティヴォーリオ家を見捨てず、フィレンツェ人を味方に引き入れるべく努力することに決めた。そして各地へ使者を送り、ある者には援助を約束し、ある者には共通の敵に対して団結するよう働きかけた。この会合のことは、たちまちイタリア全土へ伝わった。公の支配に不満を抱く者たち、とりわけウルビーノの民は、政変を起こせるとの希望を抱いた。

こうして人心が動揺するなか、ウルビーノの一部の者たちは、公のために守られていたサン・レオ要塞を奪取しようと決め、次のような方法で成功した。城代は岩山の要塞を強化し、材木を運び込ませていた。陰謀者たちはその様子を見張り、数本の梁が橋の上まで運ばれ、内側から跳ね橋を引き上げられなくなったところを見計らい、橋へ飛び乗り、そこから要塞内へ突入した。要塞が陥落すると、領国全体が反乱を起こし、先代の公を呼び戻した。彼らを勇気づけたのは、要塞の奪取そのものより、援助を期待していたマジョーネの会議だった。

ウルビーノの反乱を聞いた者たちは、この機会を逃すまいと考え、同領内に公の手に残る町があれば奪取しようと、ただちに兵を集めた。そして再びフィレンツェへ使者を送り、共和国も加わって共通の火種を消し去るよう求めた。危険は小さくなっており、次の機会を待つべきではないと説いたのである。

しかしフィレンツェ人は、さまざまな理由からヴィテッリ家とオルシーニ家を憎んでいたため、同盟を拒んだばかりか、書記官ニッコロ・マキアヴェッリを公のもとへ送り、敵に対する避難所と援助を申し出た。公はイーモラにいたが、恐怖に満ちていた。誰もが予想しなかったことに、兵士たちが一斉に敵方へ寝返り、武器を失った状態で戦争が目前に迫っていたからである。しかしフィレンツェ人の申し出に勇気を取り戻すと、残ったわずかな兵で戦う前に時間を稼ぎ、和解交渉を進める一方、援軍を得ようと決めた。援軍は二つの方法で手に入れた。フランス王に兵を求めるとともに、騎士やその他の兵を雇い、あり合わせの騎兵隊に仕立てたのである。全員に金を与えた。

それでも敵は公へ迫り、フォッソンブローネ近郊で公の兵と遭遇すると、オルシーニ家とヴィテッリ家の助力を得てこれを破った。そこで公はただちに、和解を申し出て騒乱を収められないか試みることにした。稀代の偽装家である公は、反乱者たちに、自分が望むのは、獲得したものを各人がそのまま保持することだと信じ込ませるため、あらゆる手を尽くした。自分は君主の称号さえ持てれば十分で、君主国そのものは他人が持っても構わない、としたのである。

公の策はみごとに成功し、彼らは和解交渉のためパゴロ卿を送り、軍の進撃を止めた。しかし公は準備をやめず、騎兵と歩兵を揃えることに細心の注意を払った。しかも準備を相手に悟らせぬよう、部隊を小分けにしてロマーニャ各地へ派遣した。その間にフランスの槍騎兵五百騎も到着した。公は今や、野戦で敵に復讐できるほど十分な兵力を持っていたが、相手を欺くほうが安全で有利だと考え、和解工作を続けた。

和解を成立させるため、公は彼らと和平を結び、以前の盟約を追認した。即座に四千ドゥカートを支払い、ベンティヴォーリオ家を害さないと約束し、ジョヴァンニとも同盟を結んだ。さらに、彼ら自身が望まないかぎり、公の面前へ出頭することを強制しないとした。一方、彼らはウルビーノ公国と占領した他の土地を公へ返還し、公のあらゆる遠征に従軍し、その許可なく誰とも戦争や同盟を行わないと約束した。

和解が成立すると、ウルビーノ公グイド・ウバルドは、領内の要塞をすべて破壊したのち、再びヴェネツィアへ逃れた。民衆を信頼していた彼は、自分には守れないと思われる要塞を敵に利用され、それによって味方を抑え込まれるのを望まなかったからである。一方ヴァレンティーノ公は、協定を結び、兵をロマーニャ全土に分散させると、十一月末、フランス騎士たちを伴ってイーモラを発った。そこからチェゼーナへ向かい、しばらく滞在した。ウルビーノ公国に兵を集結させていたヴィテッリ家とオルシーニ家の使節と、次にどの遠征へ参加するかを交渉するためである。しかし結論が出なかったため、オリヴェロット・ダ・フェルモが派遣され、公がトスカーナ遠征を望むなら応じるが、望まないならシニガリアを包囲すると提案した。公は、トスカーナと戦ってフィレンツェ人を敵に回すつもりはないが、シニガリアへ進むことには大いに賛成だと答えた。

それからほどなく町は降伏したが、城代が公本人以外には引き渡さないと主張したため、要塞は降伏しなかった。そこで彼らは、公に現地へ来るよう求めた。これは公にとって好機に思われた。自ら進んで赴くのではなく、相手に招かれて行くのであれば、疑念を招かずに済むからだ。さらに彼らを安心させるため、義弟ムッシュー・ド・カンダル麾下の槍騎兵百騎を除き、ロンバルディア以来同行していたフランス騎士を全員帰国させた。十二月半ばごろチェゼーナを発ってファーノへ向かうと、最大限の狡猾さと巧みさをもって、ヴィテッリ家とオルシーニ家の者たちにシニガリアで自分を待つよう説得した。従わなければ和解の誠実さと永続性を疑われること、自分は友人たちの武力と助言を活用したいと望む人間であることを説いたのである。しかしヴィテロッツォは頑として応じなかった。兄の死から、君主を怒らせたあとで信用してはならないと学んでいたからだ。それでも、公が贈り物と約束で抱き込んでいたパゴロ・オルシーニに説得され、待つことに同意した。

そこで公は、一五〇二年十二月三十日にファーノを発つ前、最も信頼する八人の従者に計画を打ち明けた。その中にはドン・ミケーレと、のちに枢機卿となるモンシニョール・デウナがいた。そしてヴィテロッツォ、パゴロ・オルシーニ、グラヴィーナ公、オリヴェロットが到着したら、従者たちが二人一組となって一人ずつ担当し、シニガリアに着くまで相手を引き留めるよう、特定の二人組に特定の人物を割り当てた。彼らを公の宿舎まで決して立ち去らせず、そこで捕らえよと命じたのである。

続いて公は、騎兵二千余、歩兵一万から成る全軍に対し、夜明けまでにファーノから五マイル(約八キロメートル)離れたメタウロ川へ集結し、そこで待機するよう命じた。こうして十二月最後の日、公は兵とともにメタウロ川へ到着した。約二百騎から成る騎兵隊を先行させ、次いで歩兵を進ませると、自らは残りの騎士とともにその後に続いた。

ファーノとシニガリアは、アドリア海沿岸のラ・マルカ地方に位置する二都市で、互いに十五マイル(約二十四キロメートル)離れている。シニガリアへ向かう者の右手には山々が連なり、その裾がところどころ海に接している。シニガリアの町は山麓から弓の射程よりやや遠く、海岸から約一マイル(約一・六キロメートル)の距離にある。町の反対側には小川が流れ、ファーノと街道の方角を向いた城壁を洗っている。したがってシニガリアへ近づく者は、かなりのあいだ山沿いの道を進み、やがて町の脇を流れる川へ至る。そこから川岸に沿って左へ曲がり、弓の射程ほど進むと、川を渡る橋に着く。そこはシニガリアの城門とほぼ同じ位置にあるが、門とは直線ではなく斜めに向き合っている。この門前には家々が集まり、川岸を一辺とする広場がある。

ヴィテッリ家とオルシーニ家の者たちは、公を待ち、直接出迎えるよう命じられていたため、公の兵が入れる場所を空けようと、自軍をシニガリアから約六マイル(約九・七キロメートル)離れたいくつかの城へ移した。シニガリアに残したのはオリヴェロットとその部隊だけで、歩兵一千、騎兵百五十から成り、先に述べた郊外に宿営していた。こうして準備が整うと、ヴァレンティーノ公はシニガリアへ向かった。先頭の騎兵指揮官たちは橋へ着いても渡らず、隊列を開き、一隊は川の方へ、もう一隊は田園の方へ向きを変えた。その中央に道を空け、歩兵を止めることなく町へ進ませた。

ヴィテロッツォ、パゴロ、グラヴィーナ公はラバに乗り、わずかな騎兵を伴って公を迎えに出た。武器を持たず、緑の裏地の外套をまとったヴィテロッツォは、自らの死期が近いと悟っているかのように、ひどく沈み込んで見えた。彼の力量とそれまでの幸運を思えば、いささか驚くべき姿だった。公に会うためシニガリアへ発つ前、自軍の者たちと別れた際も、今生の別れであるかのように振る舞ったという。家と財産を隊長たちに託し、甥たちには、一族の幸運ではなく父祖の力量を心に留めよと諭した。この三人は公の前へ進み、恭しく挨拶した。公も好意をもって迎え、ただちに彼らを監視役として任命した者たちの間に置いた。

しかし公は、部隊とともにシニガリアに残っていたオリヴェロットの姿がないことに気づいた。オリヴェロットは川近くの宿舎前の広場で、兵を整列させ、訓練していたのである。公はオリヴェロットの監視を任されていたドン・ミケーレに目配せし、逃がさぬよう手を打てと合図した。そこでドン・ミケーレは馬を走らせ、オリヴェロットのもとへ行くと、兵を宿舎の外に置いておくのはよくない、公の兵に宿舎を占められるかもしれない、と告げた。そしてただちに兵を宿舎へ戻し、自身は公を迎えに来るよう勧めた。オリヴェロットはその助言に従って公の前へ出た。公は姿を見ると呼び寄せ、オリヴェロットは敬礼してほかの者たちに加わった。

一行はそろってシニガリアへ入り、公の宿舎で馬を降りると、公とともに奥の一室へ入った。そこで公は彼らを捕らえた。次いで馬に乗り、オリヴェロットとオルシーニ家の兵から武器を奪えと命じた。近くにいたオリヴェロットの兵は、たちまち始末された。しかし遠方にいたオルシーニ家とヴィテッリ家の兵は、主君の破滅を予感していたため、備える時間があった。オルシーニ家とヴィテッリ家の武勇と規律を胸に、敵対する現地軍に団結して立ち向かい、脱出した。

一方、公の兵たちはオリヴェロットの兵を略奪しただけでは満足せず、シニガリアの掠奪を始めた。公が何人かを殺してこの暴行を抑えなければ、町は完全に掠奪されていただろう。夜となり、騒乱が静まると、公はヴィテロッツォとオリヴェロットを殺す準備を整えた。二人を一室へ連行し、絞殺させた。どちらもそれまでの生き方にふさわしい言葉は口にしなかった。ヴィテロッツォは、教皇に罪の完全な赦しを願わせてほしいと祈り、オリヴェロットは卑屈に命乞いし、公に対して行われたあらゆる加害の責任をヴィテロッツォに押しつけた。パゴロとグラヴィーナ公オルシーニは、公がローマから、教皇がオルシーニ枢機卿、フィレンツェ大司教、メッセル・ヤコポ・ダ・サンタ・クローチェを捕らえたとの報せを受けるまで、生かされていた。その報せが届くと、一五〇三年一月十八日、ピエーヴェの城で二人も同じように絞殺された。

ルッカのカストルッチョ・カストラカーニ伝

ニッコロ・マキアヴェッリ著

友人ザノービ・ブオンデルモンティおよびルイージ・アラマンニに贈る

カストルッチョ・カストラカーニ 一二八四――一三二八年

親愛なるザノービとルイージよ。この問題を考察した者にとって、世に大事業を成し遂げ、同時代のあらゆる人々を凌駕した者のすべて、あるいはその大部分が、卑しく名もない境遇に生まれたか、あるいは運命から途方もなく苛酷な仕打ちを受けていたことは、驚くべき事実に思われる。ある者は野獣のなすがままに捨てられ、またある者は、恥ずかしさのあまり自らをユピテルその他の神の子と称するほど、卑しい家に生まれた。こうした人物が誰であるかを列挙するのは退屈だろう。誰もがよく知っているうえ、その種の物語は読者にとってさほど教訓的でもないから、ここでは省く。偉人がこのように低い境遇から出発するのは、運命が、彼らの成功は知恵によるところが少なく、自分によるところが大きいと世界に示したがるためだと、私は考えている。知恵がその歩みに何の役割も果たせない時期から、運命は自らの働きを示し始める。したがって、成功のすべてを運命に帰さねばならなくなるのである。ルッカのカストルッチョ・カストラカーニも、生きた時代と生まれた都市を基準にすれば、大事業を成し遂げた人物の一人だった。しかしこの物語の展開が示すように、ほかの多くの偉人と同じく、その出生は幸運でも高貴でもなかった。彼のうちに、後世の人々の偉大な模範となるべき力量と幸運の徴を見いだしたので、その記憶を呼び戻すことには価値があると思われた。また、私の知る限り、君たちほど高貴な行為を愛する者はいないから、彼の事績を君たちに示すべきだとも考えた。

カストラカーニ家はかつてルッカの名門に数えられていたが、世によくあることとして、ここで扱う時代にはやや没落していた。この家にアントニオという息子が生まれ、ルッカのサン・ミケーレ修道会の司祭となったため、メッセル・アントニオの敬称で呼ばれていた。彼には姉妹が一人だけおり、ブオナッコルソ・チェナーミと結婚していたが、夫の死後は再婚を望まず、兄と暮らすようになった。メッセル・アントニオの住居の裏には葡萄畑があり、四方を庭に囲まれていたため、誰でも容易に入り込めた。ある朝、日の出から間もないころ、メッセル・アントニオの妹、マドンナ・ディアノーラは、いつものように夕食の香味に使う草を摘もうと葡萄畑へ入った。すると葡萄の葉の間からかすかな物音がしたので、そちらへ目を向けると、赤子の泣き声のようなものが聞こえた。近づいてみると、葉に包まれて横たわり、母親を求めて泣いているらしい赤子の手と顔が見えた。驚きと恐れを覚えながらも、憐れみに満たされた彼女は赤子を抱き上げ、家へ連れ帰った。そして慣例どおり体を洗い、清潔な亜麻布の衣を着せ、帰宅したメッセル・アントニオに見せた。事情を聞き、赤子を見たアントニオも、妹に劣らず驚き、憐れんだ。二人はどうすべきか相談し、自分は司祭であり、妹には子がいないことから、ついに二人で育てると決めた。乳母を雇い、実の子同然に慈しみながら育てた。洗礼を施し、父にちなんでカストルッチョと名づけた。年月とともにカストルッチョは非常に美しい少年へ成長し、機知と思慮の兆しを見せ、メッセル・アントニオが教える学問を年齢以上の速さで身につけた。アントニオは彼を司祭にし、やがて自分の聖堂参事会員職やその他の聖職禄を継がせるつもりで、すべての教育をその目的に向けていた。しかしやがて、カストルッチョの気質が聖職にまったく向いていないことを悟った。十四歳になると、メッセル・アントニオやマドンナ・ディアノーラの叱責を気にかけず、恐れもしなくなった。教会の書物を読むのをやめ、武器を使う遊びに熱中し、その扱いを学ぶこと、ほかの少年たちと走り、跳び、組み打ちをすること以上に喜ぶものはなかった。あらゆる運動で、勇気と体力の双方において仲間をはるかに凌いだ。たまに書物を読むことがあっても、好んだのは戦争や偉人の武勲を語るものだけだった。メッセル・アントニオは、それを苛立ちと悲しみをもって眺めていた。

当時ルッカには、グイニージ家の紳士でメッセル・フランチェスコという人物が住んでいた。軍事を生業とし、富、体力、武勇のいずれにおいても、ルッカの誰より優れていた。たびたびミラノのヴィスコンティ家の麾下で戦い、ギベリン(皇帝派)としてルッカにおける同派の重んじられた指導者だった。彼はルッカに住み、たいていの朝夕、町で最も美しいサン・ミケーレ広場の上手にあるポデスタ官邸の露台の下で、仲間と集まる習慣があった。そこで、カストルッチョが街の少年たちと、先に述べた遊びに興じる姿をしばしば見ていた。カストルッチョがほかの少年を大きく凌ぎ、王者のような権威を振るい、しかも皆から愛され、従われていることに気づいたメッセル・フランチェスコは、少年が何者なのか知りたいと強く望んだ。その生い立ちを聞くと、そばに置きたいとの思いはいっそう強まった。そこである日カストルッチョを呼び、馬の乗り方と武器の扱いを学べる紳士の家で暮らすのと、ミサと教会の儀式しか学べない司祭の家で暮らすのと、どちらを望むかと尋ねた。馬と武器の話を聞いたカストルッチョが、黙ったまま慎ましく頬を染めながらも、大いに喜んでいることは明らかだった。フランチェスコに促されると、後見人が許してくれるなら、司祭になるための勉強を捨て、兵士の修業を始めること以上に嬉しいことはないと答えた。この返事にフランチェスコは喜び、ほどなくメッセル・アントニオの同意を得た。アントニオも少年の気質を理解し、これ以上長く引き留められないのではないかと恐れ、譲らざるを得なかったのである。

こうしてカストルッチョは、司祭メッセル・アントニオの家から、軍人メッセル・フランチェスコ・グイニージの家へ移った。驚くべきことに、ごく短期間で、真の紳士にふさわしい力量と身のこなしを余すところなく示した。まず熟練した騎手となり、どれほど気性の激しい軍馬でも容易に乗りこなした。まだ若かったにもかかわらず、あらゆる馬上試合と武術競技でひときわ目立ち、力と敏捷さを競うすべての種目で抜きん出た。しかも、これらの才能をいっそう魅力的にしたのは、その快い謙虚さだった。行動でも言葉でも他人を傷つけず、身分ある者には敬意を払い、同輩には謙虚に接し、目下の者には礼儀正しかった。この美点により、グイニージ家の全員ばかりか、ルッカ中の人々から愛された。カストルッチョが十八歳になったころ、パヴィアのギベリンがゲルフ(教皇派)に追放され、ヴィスコンティ家はその救援にメッセル・フランチェスコを派遣した。カストルッチョも部隊を任されて同行した。この遠征で十分な思慮と勇気を示し、ほかのどの隊長よりも高い名声を得た。その名と評判はパヴィアばかりか、ロンバルディア全土に知れ渡った。

出発時よりはるかに高い評価を得てルッカへ戻ったカストルッチョは、一人でも多くの友を得るため、あらゆる手段を尽くし、その目的に必要な術を一つとして怠らなかった。このころメッセル・フランチェスコが死去し、十三歳になるパゴロという息子を残した。フランチェスコはカストルッチョを息子の後見人兼財産管理人に任じていた。死ぬ前にカストルッチョを枕元へ呼び、自分がつねに彼へ示したのと同じ厚意をパゴロにも示し、父に返せなかった恩を息子へ返してほしいと頼んだ。フランチェスコの死後、カストルッチョはパゴロの後見人兼財産管理人となった。これによって権力と地位は飛躍的に増したが、かつての普遍的な好意に代わり、ルッカでは幾分の嫉妬を招いた。彼が僭主になる野心を抱いていると疑う者が多かったからだ。その中心人物が、ゲルフ派の指導者ジョルジョ・デッリ・オピツィだった。ジョルジョはメッセル・フランチェスコの死後、自分がルッカ第一の人物になることを望んでいた。しかし、すでに偉大な能力を示し、後見人の地位にあるカストルッチョが、その機会を奪ったように思えた。そこでカストルッチョを高い地位から引きずり下ろすための種を蒔き始めた。カストルッチョは当初これを軽蔑していたが、やがて不安を覚えた。メッセル・ジョルジョが、ナポリ王ロベルトの代官の前で自分を失脚させ、ルッカから追放するかもしれないと考えたのである。

当時ピサの君主は、アレッツォ出身のウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオラだった。初めは総司令官に選出され、その後、君主となった人物である。パリにはルッカを追放されたギベリンたちが暮らしており、カストルッチョはウグッチョーネの助力で彼らを帰還させようと連絡を取っていた。またオピツィ家の権勢に耐えられないルッカの友人たちも計画に加えた。方針を決めると、カストルッチョは慎重にオネスティの塔を要塞化し、食糧と武器を運び込んだ。必要となれば数日間の包囲に耐えられるようにするためである。山地とピサの間の平野を大軍で占拠していたウグッチョーネと取り決めた夜が来ると、合図が送られた。ウグッチョーネは人目につかぬようサン・ピエロ門へ近づき、落とし格子に火を放った。カストルッチョは市内で大騒ぎを起こし、民衆に武器を取れと呼びかけ、内側から門をこじ開けた。ウグッチョーネは兵とともに突入して町を制圧し、メッセル・ジョルジョとその一族全員、多数の友人と支持者を殺害した。統治者は追放され、政府はウグッチョーネの意向に沿って改組されたが、それは町に災いをもたらした。このとき百を超える家族が追放されたからである。逃亡者の一部はフィレンツェへ、一部はゲルフ派の本拠地ピストイアへ向かった。そのためピストイアは、ウグッチョーネとルッカ人に対し、きわめて敵対的となった。

ギベリンがトスカーナであまりに大きな力を得たと判断したフィレンツェ人と他のゲルフ派は、追放されたゲルフをルッカへ帰還させることに決めた。ニエーヴォレ谷に大軍を集め、モンテカティーニを占領し、そこからルッカへの自由な通路を確保すべくモンテカルロへ進軍した。これに対しウグッチョーネはピサ軍とルッカ軍を集め、ロンバルディアから呼び寄せたドイツ騎兵を加え、フィレンツェ軍の陣へ向かった。敵の出現を見たフィレンツェ軍はモンテカルロから退き、モンテカティーニとペーシャの間に布陣した。ウグッチョーネはモンテカルロ近郊、敵から約二マイル(約三・二キロメートル)の地点に陣を置き、双方の騎兵の小競り合いが毎日起きた。ウグッチョーネが病に倒れたため、ピサ軍とルッカ軍は決戦を延ばした。病状が悪化すると、ウグッチョーネは治療のためモンテカルロへ行き、軍の指揮をカストルッチョに委ねた。この交代がゲルフ軍の破滅を招いた。敵軍は司令官を失い、頭を失ったも同然だと考え、過度に自信を深めたからである。カストルッチョはそれを見抜き、相手の思い込みを強めるため数日を過ごした。恐怖の兆しさえ示し、陣地の兵器を一切使わせなかった。ゲルフ軍は恐れの徴を見るほど傲慢になり、毎日、戦闘隊形を組んでカストルッチョ軍の前へ出てきた。やがて敵が十分に増長し、その戦法も把握したと考えると、カストルッチョは決戦を挑むことにした。まず兵士たちに短い激励を与え、命令に従いさえすれば勝利は確実だと説いた。敵が最精鋭の兵を戦列中央に置き、信頼性の低い兵を両翼に置いていることを見抜いていたため、正反対の布陣を採った。最も勇敢な兵を両翼に配置し、あまり信頼できない兵を中央へ移したのである。この隊形で陣地を出ると、素早く敵軍の視界に入った。敵はいつものように、傲慢にも挑戦するため進み出ていた。カストルッチョは中央部隊にはゆっくり前進するよう命じ、両翼を急速に進ませた。そのため接触したときに戦闘を始めたのは両軍の翼だけで、中央部隊は戦闘に加わらなかった。双方の中央は長い間隔で隔てられ、互いに届かなかったからである。この策により、カストルッチョ軍の最も勇敢な兵が敵の弱兵と戦い、敵の精鋭は遊兵となった。フィレンツェ軍中央の兵は正面の敵と戦うことも、自軍の両翼を助けることもできなかった。こうしてカストルッチョはさほど苦もなく両翼で敵を敗走させた。中央部隊も、力量を示す機会すらないまま攻撃にさらされたことを知ると、逃げ出した。敗北は完全で、死者は一万を超えた。そこにはトスカーナのゲルフ派の多くの将校と騎士、さらに救援に来ていた諸侯も含まれ、その中にはロベルト王の弟ピエロ、甥カルロ、ターラント君主フィリッポがいた。カストルッチョ側の損害は三百人に満たなかったが、その中には若く向こう見ずだったため最初の突撃で戦死した、ウグッチョーネの息子フランチェスコもいた。

この勝利でカストルッチョの名声は大いに高まり、ウグッチョーネは嫉妬と疑念を抱いた。この勝利によって自分の権力が増すどころか、むしろ縮小したように思えたからである。そう考えた彼は、実行の機会だけを待った。その機会は、ルッカで大きな名声と能力を備えていたピエル・アニョロ・ミケーリが殺害され、その犯人がカストルッチョの家へ逃げ込んだときに訪れた。総司令官の衛兵が犯人を逮捕しに来ると、カストルッチョは彼らを追い払い、犯人を逃がした。この事件をピサで知ったウグッチョーネは、カストルッチョを処罰する好機だと考えた。そこでルッカの統治者だった息子ネーリに、宴会の席でカストルッチョを捕らえ、殺せと命じた。何の悪意も疑わなかったカストルッチョは、友人として統治者のもとへ赴き、夕食でもてなされたあと、投獄された。しかしネーリは、殺せば民衆が激怒することを恐れ、父のさらなる指示を待つため生かしておいた。ウグッチョーネは息子の優柔不断と臆病を罵り、自ら始末をつけるべく、騎兵四百を率いてただちにピサからルッカへ発った。しかし浴場に着く前に、ピサ人が反乱を起こして彼の代官を殺し、ガッド・デッラ・ゲラルデスカ伯を君主に選んだ。ルッカへ着く前にピサの出来事を知ったものの、引き返すのは賢明でないと思われた。ピサの例を目にしたルッカ人に、門を閉ざされる恐れがあったからだ。しかしルッカ人はピサの出来事を知ると、ウグッチョーネが町へ到着していたにもかかわらず、この機会を利用してカストルッチョの解放を要求した。初めは内輪で語り、やがて広場や街頭で公然と叫び、ついには暴動を起こして武器を手にウグッチョーネのもとへ押しかけ、カストルッチョを釈放せよと迫った。さらに悪い事態を恐れたウグッチョーネは、彼を牢から出した。カストルッチョは友人たちを集め、民衆の助けを得てウグッチョーネを攻撃した。逃亡のほかに道がないと悟ったウグッチョーネは、友人とともにロンバルディアのスカラ家へ落ち延び、そこで貧窮のうちに死んだ。

一方カストルッチョは、囚人から一転して、ルッカの君主も同然の身となった。友人と民衆に対してきわめて慎重に振る舞ったため、彼らは一年の任期で軍の総司令官に任命した。この地位を得ると、戦争で名声を得ようと考え、ウグッチョーネの失脚後に反乱した多くの町を奪回する計画を立てた。条約を結んだピサ人の助力を得てセレッツァーナへ進軍し、町を攻略するため、その正面に要塞を築いた。今日ゼレッツァネッロと呼ばれている要塞である。二か月のうちに町を陥落させ、この包囲戦で得た名声をもって、たちまちマッサ、カッラーラ、ラヴェンツァを奪い、短期間でルニジャーナ全域を席巻した。ロンバルディアからルニジャーナへ通じる峠を閉ざすため、ポントレーモリを包囲し、その君主メッセル・アナスタージョ・パラヴィチーニから奪った。この勝利ののちルッカへ戻ると、民衆全体から歓迎された。もはや君主となることを先延ばしにするのは賢明でないと考えたカストルッチョは、買収していたパッツィーノ・デル・ポッジョ、プッチネッロ・ダル・ポルティコ、フランチェスコ・ボッカンサッキ、チェッコ・グイニージの助力を得て、ルッカの支配者に推戴された。その後、民衆によって厳粛かつ正式に君主へ選出された。このころローマ王バイエルン公フリードリヒが、皇帝の冠を受けるためイタリアへ来た。カストルッチョは友好関係を築くべく、騎兵五百を率いて出迎えた。ルッカの代官にはパゴロ・グイニージを残していた。父を慕う民衆の思いにより、パゴロは高い評価を受けていた。フリードリヒはカストルッチョを大いなる栄誉をもって迎え、多くの特権を授け、皇帝のトスカーナ総督に任命した。当時ピサ人は、自分たちが追放したガッド・デッラ・ゲラルデスカをひどく恐れ、フリードリヒに助けを求めた。フリードリヒはカストルッチョをピサの君主とした。ゲルフ派、とりわけフィレンツェ人を恐れるピサ人は、彼を君主として受け入れざるを得なかった。

フリードリヒは、イタリアの諸事を監督する統治者をローマに置き、ドイツへ戻った。皇帝側につくトスカーナとロンバルディアのギベリンは、みなカストルッチョに援助と助言を求め、その助力で祖国を回復できたなら統治権を委ねると約束した。こうした亡命者の中には、フィレンツェから追放されたギベリンのマッテオ・グイディ、ナルド・スコラーリ、ラポ・ウベルティ、ジェロッツォ・ナルディ、ピエロ・ブオナッコルシがいた。カストルッチョは彼らと自軍を利用してトスカーナ全土の支配者となる密かな意図を抱いていた。政治上の影響力を高めるため、ミラノ君主メッセル・マッテオ・ヴィスコンティと同盟を結び、都市と農村の軍を組織した。ルッカには五つの門があったため、領内の農村部を五区に分け、それぞれへ武器を供給し、隊長と軍旗のもとに兵を登録した。これにより、ピサから招集できる兵を除いても、歩兵二万を迅速に出陣させられるようになった。こうして兵力と同盟者を周囲に集めていたころ、メッセル・マッテオ・ヴィスコンティがピアチェンツァのゲルフに攻撃された。彼らはフィレンツェ軍とロベルト王の助力でギベリンを追放していた。マッテオはカストルッチョに、フィレンツェ人の領内へ侵攻するよう求めた。本国を攻撃すれば、防衛のためロンバルディアから軍を引き揚げざるを得ないからである。カストルッチョはヴァルダルノへ侵入し、フチェッキオとサン・ミニアートを奪い、地方に甚大な損害を与えた。フィレンツェ人は軍を呼び戻したが、それがようやくトスカーナへ着いたとき、別の必要に迫られたカストルッチョはルッカへ戻った。

ルッカにはポッジョ家があり、カストルッチョを高位へ押し上げただけでなく、君主の地位にまで進ませられるほど強大だった。ところが自分たちの功績にふさわしい報酬を受けていないと考え、ほかの諸家を扇動して反乱を起こし、カストルッチョをルッカから追い出そうとした。ある朝、好機を得ると武装し、秩序維持のためカストルッチョが残していた代官を襲って殺した。さらに民衆を蜂起させようとしたが、反乱に加わっていなかった温厚な老人ステファノ・ディ・ポッジョが介入し、その権威によって武器を捨てさせた。そしてカストルッチョとの仲介役を務め、彼らの望むものを得てやると申し出た。そこで彼らは、武器を取ったときと同じく何の思慮もなく、武器を捨てた。ルッカの出来事を聞いたカストルッチョは、ただちにパゴロ・グイニージへ軍の指揮を任せ、騎兵隊とともに帰国した。予想に反して反乱はすでに収まっていたが、町の要所に兵を配置した。ステファノは、カストルッチョが自分に大いに恩を感じているはずだと思い、面会を求めた。自分のためには何も言わなかった――その必要があるとは考えなかったからである――が、一族のほかの者たちについては、若さ、古くからの友情、カストルッチョが自家に負う恩義を理由に赦免を願った。カストルッチョは好意的に応じ、安心するよう求めた。騒乱が始まったと聞いたときの不安より、終息を知った喜びのほうが大きいと告げたのである。そして神が慈悲と寛大さを示す機会を与えてくださったことに感謝すると言い、一族を連れてくるよう促した。ステファノとカストルッチョの言葉を信じて一族が出頭すると、ステファノもろとも、ただちに投獄され、処刑された。その間にフィレンツェ人はサン・ミニアートを奪回していた。カストルッチョは、ルッカを離れられるほど安全ではないと考え、和平を結ぶのが得策だと判断した。停戦を提案すると、戦争に疲れ、出費から解放されたいフィレンツェ人も喜んで応じた。二年間の条約が結ばれ、双方はそれまでの征服地を保持することで合意した。この問題から解放されたカストルッチョは、ルッカの内政へ目を向けた。二度と先ほどのような危険にさらされないため、さまざまな口実と理由を設け、野心から君主の座を望みかねない者を一人残らず排除した。領地と財産を奪い、捕らえた者からは命も奪った。経験上、彼らは誰一人信用できないと悟った、と称したのである。さらに安全を固めるため、殺害または追放した者たちの塔の石を用い、ルッカに要塞を築いた。

フィレンツェ人と和平を結び、ルッカでの地位を強固にする一方、カストルッチョは公然たる戦争にならない範囲で、他の土地における勢力を拡大する機会を一つとして逃さなかった。ピストイアを手に入れれば、切望していたフィレンツェへ片足を踏み入れたも同然だと考えた。そこでさまざまな方法で山地の住民と親交を結び、ピストイアの両派が秘密を打ち明けるよう仕向けた。ピストイアは昔から白党と黒党に分裂しており、白党の指導者はバスティアーノ・ディ・ポッセンテ、黒党の指導者はヤコポ・ダ・ジアだった。両者はそれぞれ密かにカストルッチョと連絡を取り、相手を町から追放したいと望んでいた。幾度も脅し合った末、ついに武力衝突へ至った。ヤコポはフィレンツェ門を、バスティアーノは町のルッカ側の門を固めた。両者とも、フィレンツェ人より戦う用意も意欲もはるかにあると見て、カストルッチョを信頼し、それぞれ援助を求めた。カストルッチョは双方に約束し、バスティアーノには自ら赴くと言い、ヤコポには被後見人のパゴロ・グイニージを送ると伝えた。定められた時刻になると、パゴロをピサ経由で先行させ、自身はピストイアへ直行した。真夜中、二人は町の外で落ち合い、どちらも友人として入城を許された。こうして二人の指揮官が入城すると、カストルッチョの合図により、一方がヤコポ・ダ・ジアを、もう一方がバスティアーノ・ディ・ポッセンテを殺し、双方の派閥の支持者を捕らえるか殺害した。ピストイアはそれ以上の抵抗もなくカストルッチョの手に落ちた。彼はシニョーリアを宮殿から追い出し、多くの約束を与え、古い債務を免除して、民衆に服従を強いた。農村の住民は新君主を見ようと町へ押し寄せ、その偉大な力量に強く影響され、皆が希望に満ちて、たちまち平静を取り戻した。

このころローマでは、教皇がアヴィニョンに不在だったため物価が高騰し、大きな騒乱が起きていた。ドイツ人統治者エンリコは、殺人と暴動が日々相次ぐのに終息させられず、激しく非難された。エンリコは、ローマ人がナポリ王ロベルトを招き入れ、ドイツ人を町から追放して教皇を呼び戻すのではないかと不安を抱いた。援助を求められる近しい友人がカストルッチョ以外にいなかったため、助力を与えるだけでなく、本人がローマへ来るよう懇願する使者を送った。カストルッチョは、皇帝がローマを失えば自分も安全ではないと考え、この奉仕をためらうべきではないと判断した。ルッカの指揮をパゴロ・グイニージに任せ、騎兵六百を率いてローマへ向かい、エンリコから最高の礼遇を受けた。ほどなくカストルッチョの存在は皇帝への大きな畏敬を生み、流血も暴力もなく秩序が回復した。主な理由は、カストルッチョがピサ周辺から海路で大量の穀物を運ばせ、騒乱の原因を取り除いたことにあった。ローマの指導者の一部を罰し、他を諭すと、人々は自発的にエンリコへ服従した。カストルッチョは多くの栄誉を受け、ローマ元老院議員に任じられた。この威厳ある職には最大限の華やかさをもって就任し、錦織のトガをまとった。その前面には、次の言葉が刺繍されていた。「われは神の望みしものなり。」

背面には、こうあった。「神の望みしことは成らん。」

一方フィレンツェ人は、停戦中にカストルッチョがピストイアを奪ったことに激怒し、彼の不在中に町を反乱へ誘えないかと考えた。それは難しくないと思われた。フィレンツェに亡命していたピストイア人の中に、指導力があり、危険を恐れぬバルド・チェッキとヤコポ・バルディーニがいた。二人はピストイアの友人たちと連絡を保ち、フィレンツェ人の助力を得て夜間に入城した。そしてカストルッチョの役人と支持者の一部を追放し、他を殺害して、町の自由を回復した。この報せにカストルッチョは激怒し、エンリコに別れを告げ、大急ぎでピストイアへ向かった。帰還を知ったフィレンツェ人は、彼が時を無駄にしないと承知していたため、ニエーヴォレ谷で軍をもって阻止し、ピストイアへの道を断つことに決めた。ゲルフ派の支持者を集めて大軍を編成し、ピストイア領へ入った。一方カストルッチョは軍とともにモンテカルロへ着いた。フィレンツェ軍の位置を知ると、ピストイア平野で戦うことも、ペーシャ平野で待ち受けることもせず、可能なかぎり果敢にセッラヴァッレ峠で攻撃すると決めた。この計画に成功すれば、勝利は確実だと考えた。フィレンツェ軍が三万、自軍が一万二千と知らされてはいたが、自らの能力と兵の武勇に絶対の自信を持つ一方、数で圧倒されることを恐れ、平地で攻撃するのはためらった。セッラヴァッレはペーシャとピストイアの間にある城で、ニエーヴォレ谷を塞ぐ丘の上に位置する。峠そのものではなく、弓の射程ほど先にある。峠道は場所によって狭く険しく、全体としては緩やかに上るものの、やはり狭い。特に分水嶺となる頂上では、二十人が横一列に並べば守り切れるほどだった。セッラヴァッレの城主はドイツ人マンフレートである。カストルッチョがピストイアの君主となる以前から、城の所有を許されていた。城はルッカ人とピストイア人の双方に属しながら、どちらも領有を主張せず、マンフレートが中立の約束を守り、誰にも義務を負わないかぎり、彼を追い出そうとはしなかった。この理由と、城が強固だったことから、彼はつねに地位を保てた。カストルッチョが敵を襲うと決めたのはこの場所だった。ここなら少数の兵が有利になり、交戦前に敵の大軍を目にして怖じ気づく恐れもなかった。フィレンツェとの紛争が起こるとすぐ、カストルッチョはこの城を持つことの大きな利点を悟り、城内の親しい住民を通じて工作した。フィレンツェ軍への攻撃前夜、自軍四百人を城内へ入れ、城代を殺す手筈を整えたのである。

すべての準備を終えたカストルッチョは、戦場をピストイアからニエーヴォレ谷へ移したいというフィレンツェ人の意欲を保たせる必要があった。そのため軍をモンテカルロから動かさなかった。フィレンツェ軍は急ぎ進み、セッラヴァッレの麓に陣を張り、翌朝に丘を越えるつもりでいた。その間にカストルッチョは夜陰に乗じて城を奪い、軍もモンテカルロから移動させていた。真夜中、完全な沈黙のうちに進軍し、セッラヴァッレの麓へ到着した。こうして翌朝、カストルッチョ軍とフィレンツェ軍は同時に丘を上り始めた。カストルッチョは歩兵を街道から先行させ、騎兵四百を左手の小道から城へ向かわせた。フィレンツェ軍は騎兵四百を先頭に進ませ、その後を本隊が続いた。カストルッチョが丘を占拠しているとは夢にも思わず、城が奪われたことも知らなかった。そのため丘を上っていたフィレンツェ騎兵は、カストルッチョの歩兵を発見して完全に不意を突かれた。あまりに近かったため、面頬を下ろす時間さえほとんどなかった。準備のない兵が準備の整った兵に襲われたのである。激しく攻め立てられ、辛うじて持ちこたえたが、突破できたのはごく少数だった。戦闘音が麓のフィレンツェ軍陣地へ届くと、陣内は混乱に陥った。騎兵と歩兵が解きほぐせぬほど入り乱れ、峠が狭いため指揮官は兵を前進も後退もさせられなかった。この混乱のなか、誰も何をすべきか、何ができるかを知らなかった。敵歩兵と交戦した騎兵は、不利な地形のため有効な防戦もできず、ほどなく散り散りになるか殺された。絶望のあまり激しく抵抗したものの、退路はなかった。両側には山、前方には敵、後方には味方がいたからである。自軍が決定的な打撃を与えて敵を敗走させられずにいるのを見たカストルッチョは、歩兵一千を城側から迂回させ、先に派遣していた騎兵四百と合流し、全軍で敵の側面を攻撃せよと命じた。彼らは猛烈な勢いで命令を実行し、フィレンツェ軍は耐えられず、崩れて全面的な退却に移った。敵の武勇より、不利な地形に打ち負かされたのである。後方の兵はピストイアへ向きを変え、各人が自分の安全だけを求めて平野へ散った。敗北は完全で、流血も甚だしかった。捕虜となった指揮官には、フィレンツェ貴族のバンディーニ・デイ・ロッシ、フランチェスコ・ブルネレスキ、ジョヴァンニ・デッラ・トーザがおり、そのほかフィレンツェ側で戦った多くのトスカーナ人と、ゲルフ支援のためロベルト王から派遣されたナポリ人も捕らえられた。敗北を知ったピストイア人は、ただちにゲルフ派の友人たちを追放し、カストルッチョへ降伏した。彼はプラートとアルノ川両岸の平野にある全城塞を占領するだけでは満足せず、フィレンツェから約二マイル(約三・二キロメートル)のペレトラ平野へ軍を進めた。そこで何日も過ごし、戦利品を分配し、宴と競技会を催して勝利を祝った。競馬のほか、男女それぞれの徒競走も行わせた。フィレンツェ人の敗北を記念する貨幣も鋳造した。さらにフィレンツェ市民の一部を買収し、夜間に城門を開かせようとしたが、陰謀は発覚し、関係者は捕らえられて斬首された。その中にはトンマーゾ・ルパッチとランベルトゥッチョ・フレスコバルディがいた。この敗北でフィレンツェ人は大きな不安に陥り、自由を守る望みを失って、ナポリ王ロベルトへ使節を送り、町の支配権を差し出した。ゲルフ派の維持が自分にとって計り知れぬほど重要だと理解していた王は、これを受け入れた。フィレンツェ人から毎年二十万フローリンを受け取ることで合意し、息子カルロを騎兵四千とともにフィレンツェへ派遣した。

ほどなくフィレンツェ人は、カストルッチョ軍の圧力から幾分解放された。ピサの有力者ベネデット・ランフランキが起こした陰謀を鎮圧するため、カストルッチョがフィレンツェ前面の陣地を離れ、ピサへ進まざるを得なくなったからである。ランフランキは祖国がルッカ人の支配下にあることに耐えられず、城塞を奪い、カストルッチョの支持者を殺し、守備隊を追放しようと陰謀を企てた。しかし陰謀には秘密を守るため少人数が必要である一方、実行には少人数では足りない。そこで加担者を増やそうとしたランフランキは、計画をカストルッチョへ密告する人物に出会ってしまった。この裏切りについては、ピサへ亡命していたフィレンツェ人ボニファチオ・チェルキとジョヴァンニ・グイディの二人を、厳しく非難せずには済ませられない。カストルッチョはベネデットを捕らえて処刑し、ほかにも多くの有力市民を斬首し、その家族を追放した。今やピサとピストイアの双方が強い不満を抱いていると見たカストルッチョは、両地での地位を固めるため多大な思慮と労力を費やした。そのためフィレンツェ人には、軍を再編し、ナポリ王の息子カルロの到着を待つ時間が生まれた。カルロが着くと、もはや一刻も無駄にしないと決め、イタリア中のゲルフに援助を求め、歩兵三万余、騎兵一万の大軍を集めた。最初にピストイアとピサのどちらを攻めるべきか協議し、ピサへ進軍するほうがよいと決めた。先の陰謀を考えれば成功の見込みが高く、ピサを得ればピストイアも降伏すると考えられ、利益も大きかったからである。

一三二八年五月初め、フィレンツェ軍は行動を開始し、たちまちラストラ、シーニャ、モンテルーポ、エンポリを占領し、そこからサン・ミニアートへ進んだ。フィレンツェ人が送ってきた大軍のことを聞いても、カストルッチョは少しも動揺しなかった。今こそ運命がトスカーナの覇権を自らの手へ渡す時が来たと信じたからだ。敵がピサやセッラヴァッレのとき以上に善戦し、勝利の見込みを持っていると考える理由はなかった。歩兵二万、騎兵四千を集めてフチェッキオへ向かい、パゴロ・グイニージには歩兵五千を与えてピサへ送った。フチェッキオはアルノ川とグシャーナ川の間に位置し、周辺の平野よりやや高いため、ピサ地方のどの町より堅固だった。しかも敵は兵力を分けなければ糧道を断てず、ルッカやピサの方角から接近することも、ピサへ抜けることもできず、不利な状況でなければカストルッチョ軍を攻撃できなかった。一方から来れば、カストルッチョ本人の軍とパゴロの軍に挟まれ、もう一方から来れば、敵と接近戦を交えるためアルノ川を渡らねばならず、きわめて危険だった。フィレンツェ人を後者の道へ誘うため、カストルッチョは兵を川岸から退かせ、フチェッキオの城壁下へ配置し、川との間に広大な空地を残した。

サン・ミニアートを占領したフィレンツェ人は軍議を開き、ピサとカストルッチョ軍のどちらを攻めるべきか検討した。双方の困難を比較した末、後者を選んだ。当時アルノ川は浅く、徒歩で渡れたが、それでも水は歩兵の肩、騎兵の鞍にまで達した。一三二八年六月十日の朝、フィレンツェ軍は多数の騎兵と歩兵一万を前進させ、戦闘を開始した。行動計画を定め、何をすべきか熟知していたカストルッチョは、歩兵五千、騎兵三千でただちにフィレンツェ軍を攻撃し、川から上がる暇を与えず突撃した。さらに軽歩兵一千を川上へ、同数をアルノ川下流へ送った。フィレンツェ歩兵は武具と水に妨げられ、川岸を上れなかった。騎兵が渡った場所では、先に渡った少数の馬が川底を踏み崩したため、後続の渡河はいっそう困難となった。深い泥に脚を取られ、多くの馬が騎手もろとも倒れ、また動けぬほど深くはまり込んだ。兵の苦戦を見たフィレンツェ軍の指揮官たちは、一度退かせて上流へ移し、川底がより安定し、岸も上陸に適した場所を探そうとした。しかし川岸では、すでにカストルッチョが先行させていた部隊が待ち受けていた。小盾と投槍を持つ軽装兵は、凄まじい叫び声とともに騎兵の顔と体へ投槍を浴びせた。騒音と傷に怯えた馬は前へ進まず、大混乱のうちに互いを踏みつけた。カストルッチョ軍と、渡河に成功した敵兵との戦いは激しく凄惨だった。双方が死に物狂いで戦い、どちらも退かなかった。カストルッチョの兵は敵を川へ押し戻そうとし、フィレンツェ兵は後続のために場所を空けようと、陸上に足場を築こうとした。水から上がりさえすれば戦えるからである。この頑強な戦いを、双方の指揮官が叱咤した。カストルッチョは、彼らこそ以前セッラヴァッレで破った敵だと叫び、フィレンツェ人は、多数が少数に負けてよいのかと互いを責めた。やがて戦闘が長引き、味方も敵も疲れ果て、双方に多数の死傷者が出たのを見たカストルッチョは、新たな歩兵部隊を前線の後方へ進ませた。そして戦っていた兵に、退却するかのように隊列を開き、一部は右へ、一部は左へ分かれよと命じた。そこに空間が生まれると、フィレンツェ兵はただちに乗じ、戦場の一角を占めた。しかし疲れ切った彼らは、カストルッチョの予備隊と接近戦になると耐えられず、たちまち川へ押し戻された。両軍の騎兵はまだ決定的な優勢を得ていなかった。騎兵で劣勢だと知るカストルッチョは、歩兵を破れば騎兵もすぐ片づけられると考え、指揮官に敵の攻撃を防ぐだけに留めるよう命じていたからである。予想どおりとなった。フィレンツェ軍が川の向こうへ押し返されたのを見ると、残りの歩兵に敵騎兵を攻撃せよと命じた。歩兵は槍と投槍をもって攻め、自軍の騎兵も加わって猛烈に襲いかかり、ほどなく敵を敗走させた。フィレンツェ軍の指揮官は、騎兵が渡河に苦しむのを見て、歩兵を下流で渡らせ、カストルッチョ軍の側面を攻撃しようともした。しかしそこも岸が険しく、すでにカストルッチョの兵が並んでいたため、この行動はまったく役に立たなかった。こうしてフィレンツェ軍はあらゆる地点で完敗し、逃れられたのは三分の一にも満たなかった。カストルッチョは再び栄光に包まれた。多くの指揮官が捕虜となり、ロベルト王の息子カルロと、フィレンツェの委員ミケランニョロ・ファルコーニ、タッデオ・デッリ・アルビッツィはエンポリへ逃げた。戦利品も莫大だったが、このような戦いで予想されるとおり、死者はそれをはるかに上回った。フィレンツェ軍は二万二百三十一人を失い、カストルッチョ軍の死者は千五百七十人だった。

しかしカストルッチョの栄光を妬んだ運命は、まさに彼の命を保つべき時にそれを奪った。こうして長年実現のために努力してきた計画のすべてを破壊した。その遂行を妨げられるものは、死のほかになかったのである。カストルッチョは一日中、戦いの最前線にいた。戦闘が終わると、疲労し、体が熱くなっていたにもかかわらず、フチェッキオの門に立ち、勝利から戻る兵士たちを迎え、一人ひとりに感謝した。また敵が戦況を挽回しようとする動きにも警戒していた。優れた将軍は誰より先に馬へ乗り、誰より最後に下りるべきだと考えていたからである。そこでカストルッチョは、アルノ川沿いでしばしば正午ごろ吹き、健康を害することの多い風にさらされた。そのため体を冷やしたが、この種の不調には慣れていたので、気に留めなかった。しかし、それが死因となった。翌夜、高熱に襲われ、急速に悪化したため、医師たちは助からないと悟った。そこでカストルッチョはパゴロ・グイニージを呼び、次のように語った。

「すべての成功が約束していた栄光へ至る道の半ばで、運命が私の命を断つと知っていたなら、私はこれほど多くを求めて働かなかっただろう。そしておまえには、より小さくとも、敵と危険の少ない国を残したはずだ。ルッカとピサの統治で満足し、ピストイア人を服従させることも、フィレンツェ人にこれほど多くの害を加えて怒らせることもしなかった。両者を友とし、長く生きられなかったにせよ、少なくとももっと平穏に暮らし、おまえには、確かに小さくとも、より安全で、より堅固な基盤を持つ国を残しただろう。しかし人間の営みを裁定することに固執する運命は、最初からそれを見抜く十分な判断力も、それを克服する時間も、私に与えなかった。多くの者から聞いているだろうし、私も決して隠したことはない。まだ少年だった私が、気高い魂なら誰もが抱くべき野心すら知らずに、おまえの父の家へ入ったこと。父上に育てられ、その血を引く子であるかのように愛されたこと。その指導のもとで、勇敢であることを学び、おまえも目撃してきたあらゆる幸運を活用する能力を身につけたことを。善良なる父上は死を迎えるとき、おまえと全財産を私に託した。私は果たすべき愛情をもっておまえを育て、果たすべき配慮をもって財産を増やした。そしておまえが父上から受け継いだ財産だけでなく、私の幸運と能力が得たものをも所有できるよう、私は結婚しなかった。実子への愛が、父上の子に返すべき恩義から私の心を逸らさぬためだ。こうして私は広大な国を残す。それには大いに満足している。だが、不安定で安全でない状態のまま残すことが、ひどく気がかりだ。おまえはルッカを抱えることになるが、この町は決しておまえの統治に満足しない。ピサもある。ピサ人は移り気で信用できず、一時的に服従させられても、ルッカ人に仕えることをつねに屈辱と感じるだろう。ピストイアもおまえに忠実ではない。派閥争いに蝕まれ、先ごろ受けた危害のため、おまえの一族へ深い怒りを抱いている。隣人には、われわれが千もの方法で傷つけ、怒らせながら、完全には滅ぼさなかったフィレンツェ人がいる。彼らは、トスカーナ全土を得る以上の喜びをもって、私の死の報せを迎えるだろう。皇帝にもミラノの諸侯にも頼れない。遠く離れ、動きが鈍く、援軍の到着には長い時間がかかるからだ。したがって、おまえが望みを託せるのは、自らの能力、私の武勇の記憶、そしてこの最後の勝利がおまえにもたらした威信だけである。それを慎重に用いる術を知れば、大敗に苦しんでいるフィレンツェ人との和解に役立つだろう。彼らも、おまえの言葉を聞く気になるはずだ。私はフィレンツェ人との戦争が自らの権力と栄光に資すると信じ、彼らを敵にしようと努めてきた。しかしおまえには、彼らを友にする理由がいくらでもある。同盟はおまえに利益と安全をもたらすからだ。この世で何より重要なのは、自分自身と、自らの力および手段の限界を知ることである。戦争の才がないと知る者は、平和の術によって統治することを学ばねばならない。私の助言に従って行動し、私が生涯の労苦と危険によって得たものを、この方法で享受するがよい。私が語ったことが真実だと信じるようになれば、たやすく成功するだろう。そうすればおまえは、国を残されたことと、その守り方を教えられたことの二つについて、私に恩を負うことになる。」

その後、カストルッチョとともに戦っていたピサ、ピストイア、ルッカの市民たちが訪れた。カストルッチョは彼らにパゴロを託し、自らの後継者として従うことを誓わせたのち、死去した。彼を知る者には幸福な記憶を残し、同時代のどの君主も、これほど深く愛されることはなかった。葬儀はあらゆる哀悼のしるしをもって執り行われ、ルッカのサン・フランチェスコ教会に埋葬された。運命はパゴロ・グイニージに対し、カストルッチョに対したほど好意的ではなかった。パゴロには同じ能力がなかったからである。カストルッチョの死後、ほどなくピサを失い、次いでピストイアを失い、ルッカも辛うじて維持したにすぎなかった。それでもルッカは、パゴロの曾孫の時代までグイニージ家の手に残った。

以上から、カストルッチョが並外れた能力を持つ人物だったことがわかる。それは同時代の人々との比較だけでなく、過去の人々と比べても同じである。身長は平均を上回り、均整の取れた体格をしていた。風采は好ましく、人を実に礼儀正しく迎えたので、彼と話した者が不満を抱いて立ち去ることはめったになかった。髪は赤みを帯び、耳の上で短く切っていた。雨でも雪でも帽子をかぶらずに歩いた。友には快活だったが、敵には恐ろしかった。臣民には公正であり、不実な者には喜んで不実をもって応じ、服従させたい相手には進んで策略を用いた。栄光をもたらすのは勝利であって、それを得る方法ではない、と常々語っていたからである。危険に立ち向かう点で彼以上に大胆な者はなく、危険から抜け出す点で彼以上に慎重な者もいなかった。人はあらゆることを試み、何ものも恐れるべきではない、神は強者を愛する、弱者が強者によって罰せられるのをつねに目にするからだ、と語るのが常だった。また、その返答は驚くほど機知に富み、礼を失わぬまま辛辣でもあった。このような話し方について他人に寛容を求めなかったのと同様、他人が彼に寛容でなくとも怒らなかった。辛辣な言葉を浴びても、静かに聞いていたことが幾度もある。たとえば、ヤマウズラ一羽に一ドゥカートを払わせたとき、友人からそのことで咎められた。カストルッチョが「おまえなら一ペニーより多くは払わなかっただろう」と言うと、友人は「そのとおりだ」と答えた。するとカストルッチョは言った。「私にとって一ドゥカートは、それよりずっと少ない。」

ある追従者を軽蔑していると示すため、その男に唾を吐きかけたことがある。すると追従者は言った。「漁師は小魚を何匹か捕るため、海水に全身を濡らされても構いません。私は鯨を捕るため、唾で濡らされるのを甘んじて受けます」。カストルッチョは腹を立てずに聞いただけでなく、褒美まで与えた。また、ある司祭から、そのように贅沢な暮らしをするのは邪悪だと言われると、「それが悪徳なら、聖人の祝祭であなた方があれほど豪勢な食事をするはずはあるまい」と答えた。

通りを歩いているとき、いかがわしい家から出てきた若者が、カストルッチョに見られて顔を赤らめた。そこでこう言った。「恥じるべきなのは、そういう所から出るときではなく、入るときだ。」

友人から、ひどく複雑に結ばれた結び目を渡され、ほどいてみろと言われると、こう答えた。「馬鹿者、結ぶのにそれほど苦労したものを、私がほどきたいと思うのか。」

哲学者を自称する者に、カストルッチョは言った。「おまえたちは、いちばん良い餌をくれる者の後をいつも走る犬に似ている」。すると相手は答えた。「むしろ私たちは、最も必要としている者の家へ赴く医者に似ています。」

ピサからリヴォルノへ船で向かっていたとき、危険な嵐が起こり、カストルッチョはひどく動揺した。同乗者の一人が、自分は何も恐れないと言い、彼の臆病を責めた。カストルッチョは答えた。「それも不思議ではない。人は誰でも、自分の魂に、それだけの価値しかつけないものだ」。どうすれば尊敬を得られるかと尋ねられたときには、こう言った。「宴へ行ったら、木片の上に別の木片を座らせぬよう気をつけよ」[訳注:椅子より人間を重んじよ、との意を含む機知]

多くの書物を読んだと自慢する者に、カストルッチョは言った。「多くのことを覚えていると自慢する以上の分別はあるらしい。」

酔わずにいくらでも酒を飲めると自慢する者には、こう答えた。「牛も同じことをする。」

カストルッチョには親密な関係を結んだ娘がいた。女に捕まるとは威厳を損なうと友人から責められると、こう言った。「あの女が私を捕まえたのではない。私があの女を捕まえたのだ。」

美食を好むことを責められると、「おまえは私ほど金を使わないのか」と尋ねた。そうだと答えられると、「ならば、おまえの吝嗇は私の大食よりひどい」と続けた。

ルッカのきわめて裕福で豪奢な市民タッデオ・ベルナルディから夕食へ招かれたとき、カストルッチョはその家へ赴き、絹を張った壁と、美しい色彩の花や葉を表した上質な石の床を持つ部屋へ案内された。カストルッチョは口に唾をため、タッデオへ吐きかけた。相手がひどく狼狽するのを見ると、こう言った。「おまえをこれ以上傷つけずに唾を吐ける場所が、ほかに見つからなかったのだ。」

カエサルはどのように死んだのかと尋ねられると、「神が望まれるなら、私も彼と同じように死のう」と答えた。

ある夜、貴族の一人の家で多くの婦人たちと集まり、身分ある者としては度を越して踊り、楽しんでいると友人に咎められた。するとこう言った。「昼に賢者と思われている者は、夜に愚者とは思われない。」

ある者が願い事をしに来たが、カストルッチョが話を聞いていないと思い、地面にひざまずいた。カストルッチョが厳しく叱ると、その者は言った。「このようなことをさせたのは閣下です。閣下の耳は足についているのですから」。そこで望んだものの二倍を与えられた。カストルッチョは、地獄へ至る道は容易だとよく語った。下り坂であり、しかも目隠しをして進むからである。無駄な言葉を延々と並べて願い事をする者には、こう言った。「次に頼み事があるときは、ほかの者を使いに寄越せ。」

同じような男の長広舌にうんざりさせられたとき、相手が最後に「長く話しすぎて、お疲れになったかもしれません」と言うと、カストルッチョは答えた。「いや、疲れてはいない。おまえの言葉を一つも聞いていなかったからだ。」

美しい少年から立派な男へ成長した者について、危険な男だと語ったことがある。「以前は妻たちから夫を奪い、今では夫たちから妻を奪っているからだ」。嫉妬深い男が笑っているのを見ると、「自分が幸運だから笑っているのか、それとも他人が不幸だからか」と尋ねた。

まだメッセル・フランチェスコ・グイニージのもとにいたころ、仲間の一人が尋ねた。「鼻を一発殴らせてくれたら、何をくれる?」

カストルッチョは答えた。「兜だ。」

自らを権力の座へ押し上げるのに力を貸したルッカ市民を処刑したとき、古くからの友人を殺すのは間違いだと言われると、人々は勘違いしている、自分が殺したのは新しい敵にすぎない、と答えた。カストルッチョは、妻を迎えようと考えながら、結局そうしなかった者たちを大いに称賛した。海へ出ると言っておき、いざその時が来ると取りやめる者に似ているからだという。また人は陶器やガラスの壺を買うときには、良品かどうか知るため叩いて音を確かめるのに、妻を選ぶときには眺めるだけで満足するのが、いつも不思議でならないと語った。死んだらどのように埋葬されたいかと尋ねられると、こう答えた。「顔を下に向けて埋めてくれ。私が死ねば、この国は上下がひっくり返るとわかっているからだ。」

魂を救うため修道士になろうと考えたことはないかと尋ねられると、ないと答えた。修道士ラゼローネが天国へ行き、ウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオラが地獄へ行くなど、奇妙に思えたからである。健康を保つにはいつ食事をすべきかと尋ねられたときには、こう答えた。「金持ちなら腹が減ったとき、貧乏人なら食べられるときだ。」

ある貴族が家人に衣服の紐を締めさせているのを見ると、こう言った。「その者に、食事まで食べさせてもらうことがありませんように、と神に祈ろう。」

ある家の壁にラテン語で「神よ、この家を邪悪な者から守りたまえ」と書かれているのを見ると、こう言った。「家の主人は、決して中へ入れないだろう。」

通りを歩いていると、非常に大きな扉を持つ小さな家が目に入り、こう評した。「あの家は、扉から飛び去ってしまうだろう。」

追放された貴族たちの財産をめぐってナポリ王の使節と協議していたとき、口論となり、使節が王を恐れないのかと尋ねた。「おまえたちの王は悪人か、それとも善人か」とカストルッチョが尋ねると、善人だとの答えが返った。そこでこう言った。「なぜ私が善人を恐れるべきだと言うのか。」

彼の機知に富み、重みもある言葉について、ほかにも多くの逸話を挙げられる。しかし以上で、その優れた資質を証明するには十分だと思う。四十四年の生涯を送り、あらゆる点で君主たる人物だった。多くの幸運の証拠に囲まれていた一方、不運の記念も身近に置いておきたいと望んだ。そのため牢獄でつながれていた手枷は、今日なお彼の居館の塔に固定されて見ることができる。苦難の日々を永遠に証言させるため、自らそこへ置かせたのである。その生涯において、アレクサンドロスの父であるマケドニアのフィリッポスにも、ローマのスキピオにも劣らなかった。そして彼らと同じ年齢で死んだ。もし運命が、彼をルッカではなくマケドニアかローマに生まれさせていたなら、疑いなく両者を凌いでいただろう。

公開日: 2025-05-29

改訂日: 2026-07-14